一人きりの昼は過ぎ

 不思議な少年と出会った日の事を、数週間経った今でもよく覚えていた。それだけ彼の雰囲気が印象的で鮮烈だったのだろう。

 穏やかでいながら、するりと懐に入り込んでくるその雰囲気は、人慣れした猫のそれに似ていた。ユウレは他ならぬ猫派。また会えないだろうか。なんて、そんなことを思って周囲を見回したことも、一度や二度ではない。

 そうして意外にも、願った再会は早かった。ユウレと少年――ステイシーの求めるものはよく似ていたのだ。一面のポピーに埋め尽くされた大地の上、見覚えのある茶色い後ろ姿を見つけたのはユウレではなく蝶たちだった。

 声高に驚きの声を上げて、一直線に翅を羽ばたかせて飛んでいく。そうして彼らが立派に生えた角の上にとまった時、その後ろ姿はこちらを振り返った。少し眠そうにした紫色がユウレを捉える。やぁと笑って見せれば、相手も同じように挨拶と共に笑みを返してくれた。

 数週間前に会った時より、少しばかり健康的になっただろうか。真っ白だった肌に少し赤みが差していて安心した。

「この間は、どうもすまなかったね。あれから元気だったかい?」

 ユウレがこうして謝っているのは、実は前回会ったときにちょっとしたトラブルがあったことに起因する。

 お腹が空いたという少年を図書館に招いたあと、ユウレは簡単な料理を作り差し出した。野菜とハムの入ったサンドイッチ、料理や食にあまり頓着しないユウレの唯一の得意料理だ。

 彼は少し固まった後に、それに口を付けたが、ものの数分もしないうちにみるみる体調を崩してしまった。よくよく身の上を聞けば、『花』しか食べられない体なのだという。二十数年生きてきた中で、初めて耳にする体質に驚いた。それでも好意を無碍にするまいと意を決して食べてくれたのだろう。そんな彼にますますユウレが好感を抱いたことは言うまでもない。

 体調を心配しての問いかけに、ステイシーは一旦苦笑いをして頷いた。

「僕こそ、ごめんなさい。もう、元気だよ。……ポピーは美味しいし」

 言いながら示したのは足元に爛漫と咲き誇る色とりどりのポピーだった。その中の一つ、一際赤い一輪を摘み取り、肉厚な花びらを食むと、彼は幸せそうに眉を落とした。

「ポピーは蜜も美味しいのよ!」
「俺は菜の花の方が好きだけど」
「クアトロのあくしゅみ」
「あぁ?!」

 角にとまったままそんな喧嘩を勃発させた二頭に、角の持ち主はあわあわとわかりやすく慌て始める。ユウレの窘めの声にも全く耳を貸さない二頭は角から飛び立ち空中で喧嘩を勃発させた。

 本当に、誰に似たのだか。ユウレは呆れた息を吐いて、腰に手を添える。

「お兄さんは、……あの二人と一緒に住んでいるの?」

 ぷつん、とまた一輪ポピーを摘み取りながら、紫色の瞳がこちらを見上げた。あぁ、と頷き、彼の目の前で同じようにしゃがみこむ。視線を合わせると澄んだ瞳がさらに近くなり、なんだか妙に安らぐようだった。

「君は一人で旅をしているのかい?」
「うん。……花しか食べられないけれど、食べ尽くしてしまったら、……花畑がなくなってしまうから」
「なるほど。じゃあここでも少し食べたら出ていってしまうのか」
「うん」

 ぷつん、ぷつん。摘み取っては一枚ずつ花びらを口に運ぶ仕草は小動物のようで、それでいてどこか絵画的だった。

 全ての花びらを食べ終わると、残ったのは花柱と茎だ。それらは一緒に口の中に放り込み、ゆっくりと咀嚼する。

 本当に少ない質量を、時間をかけて食していく。こうして口にする一輪ごとに、どれくらいのエネルギーになるというのだろうか。彼の周りから花が少しずつ減っていく様を見ながら、ぼんやりとユウレは思った。

 育ち盛りの年頃だというのにやたらと細い体にも、この食生活ならば納得がいく。一人ぼっちで旅をする少年、花を求めて足を止められないその姿が何処か痛々しく思えた。胸が締め付けられるような感覚に襲われたのは、何も同情だけではない。過去の自分自身と重ね合わせてしまっている事にも、ユウレは気付いていた。

 彼は過去のユウレと似ている。生きていくために止められない行為の為に、自身をすり減らす姿は、在りし日の自分自身だった。

 しゃがみこんだ膝の上で組んだ両腕に顎を乗せて、じいっと彼の食事風景を心あらずに見つめていた。そうすると不意に、ステイシーが小さな声を上げる。

 何事かと彼を注視すると、声を上げた方は少し照れた顔をして「……あたり、引いた」と屈託のない笑みを浮かべた。ここにきて初めて、彼の満面の笑みを見たかもしれない。眉を落としたまま瞳を細め、ステイシーは手にした緑色をユウレに差し出した。

 白く華奢な手のひらに収まっていたのは、四葉のクローバーだった。この上なく有名な、幸せの象徴。

「……この間の、お礼、」
「え。……あぁ、ありがとう、」

 差し出されたクローバーとステイシーの顔を一巡して、ユウレは彼の手からクローバーを受け取る。

 初めて見た。存在自体は知っていたものの、幼少期に外出して探すことは叶わなかったし、大人になってからは興味の薄れと年齢相応の羞恥で地面を注視することもなかったのだ。思わずしげしげと眺めてしまうユウレに、ステイシーは少し可笑しそうに笑った。

「はじめて見た、みたいな顔だね」
「……あはは、実はそうなんだ」
「……花畑に、よく来るのに?」
「恥ずかしながら、私は彼らの付き添いだしね。待っている間はいつもこれさ」

 言いながら今日も持ってきていた文庫本を軽く掲げて見せる。

 納得の表情を浮かべた相手は、やはり屈託のない笑みを浮かべて、なら、よかった、と、長く伸ばした髪の毛を揺らし首を傾げた。

「僕も誰かにあげたのは、初めてだよ。……いつも食べてしまうんだ」
「……ねぇ。寂しくないのかい」
「え?」
「一人ぼっちだろう、ずっと」
「……少し、寂しいけれど、……でも、すぐにさよならして傷つくくらいなら、一人の方が楽だよ」

 そっと目を伏せた表情に、嘘は見えなかった。それだけに、尚更痛ましい。寂しさと一人でいることのメリットを天秤にかけなければいけないという状況そのものが、ユウレの心をちくちく刺した。

 どうしようもない感情で胸を満たしていると、喧嘩や食事に満足したらしい二頭の蝶が明るい声とともにこちらへと帰ってきた。

 受け取ったクローバーの茎を、くるりと回し、ユウレは務めて明るく笑って見せる。

「寂しくなったり、何かに困ったら、いつでもおいで」
「?でも、僕はいつも旅してる」
「うん。君が必要としてくれたら、どこにだって現れる」

 いつかのように、ユウレは翻した手の平を横に凪いだ。キラキラと飛び立つ光の蝶が霧散するにつれて、背後には茶色い煉瓦を基調にした図書館が現れる。

 二度目の現象だとしても、なおも非日常であるその光景に、ステイシーが再び目を瞬かせた。

「『コレ』はそういう類の建物なんだ」

 言いながら貰ったクローバーを帽子に巻かれたリボンへ挿し込む。ユウレは図書館の扉を押し開け、ステイシーへと笑みを浮かべた。

「待っているよ、ステイシー」
「ちょっとだけな!」
「わたしは沢山よ!」

 ヒラヒラ振った手の平に、蝶たちのコメントが乗る。言葉を受け取ったステイシーは、以前とはまた違った輝きをその目に宿して、静かに頷いた。


//一人きりの昼は過ぎ(運命-2)

2018-04-04
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