潮騒に惑う

 海に近いこの家は、時に潮騒が眠りの邪魔をする。カナ・クニミネは、汗で額に張り付いた黒髪をかき上げながら、煩わしそうに上体を起こした。窓の外では憎らしいほど青い海が、陽の光を反射してキラキラと瞬いている。

「鬱陶しい……」

 気怠く吐いたため息すら、潮騒は綺麗に飲み込んでいった。


***


 朝からエネルギーを取ると、どうにも気分が悪くなる。朝食を取らない習慣は、幼いころに根付いてしまった。リビングテーブルの真正面の席に座った双子の妹が、シリアルと牛乳、ヨーグルトを完食する様を眺めながら、カナはまた一つため息を吐く。

「あぁー、カナくん、またため息。悪い癖だよ~」

 テレビで流れている今日の星占いにくぎ付けだったくせに、そういうところだけ耳聡い彼女、イトは、カナをじっとりと睨め付けてから、大仰に胸を張った。

 男女の双子であることもあって、カナとイトの双子はあまり似ていない。カナの直毛の黒髪に対し、イトは長い亜麻色の猫毛をしているし、不愛想なカナに比べてイトは底抜けに明るい。

「私もカナくんも、今日は一位だよ、占い!そんなにため息ついていたら、私が運勢勝っちゃうんだから!」
「なにその謎の理論……。いいよ、お前に負けたって」
「まぁたそうやってー」
「カナはリアリストねぇ」
「……違う、そういうの信じてたら埒が明かないから」

 ぶすくれるイトの隣で、くすくすと笑うのは、彼らの祖母だ。齢六十を過ぎるというのに、未だ黒々とした髪をきっちり纏め、皺一つない着物に身を包んだ彼女は、慣れた手付きでリンゴをウサギ型に切りながら、「私は良い結果だけ、信じているわ」と笑っている。

 朝食を食べないカナが、リビングに集まりテーブルにつくのは彼女の意向だ。家族なのだから、朝食と夕食は、可能な限り一緒のテーブルで。そういうこだわりを反映した結果、カナだけが水を飲んでいるという謎の朝食風景が出来上がる。嫌いではなかったけれど、その分本当は寝ていたいなぁ、なんて、また、ため息。

 ぽん、ぽん、ぽん。カナのため息を再び指摘するイトの声に、柱時計が時間を告げる音が被った。その音からも、イトの喧しい謎の指摘からも逃げるように、カナは席を立つ。

「ほら、運勢よりも、今日のテストを気にしろよ」
「うーん、数学よりも占いのほうが身近で好きだよぉ」
「知るもんか……、行くぞ」
「はぁい。行ってきます、おばあちゃん~」
「はい。行ってらっしゃい」

 高校指定のバッグを手にする双子の兄妹の頭へ、祖母は両の手を片方ずつ乗せた。

 「今日もいいことがありますように。占いの結果より、もっとね」

 そう告げる彼女がにっこりと微笑むと、その手を中心にオレンジ色の光が瞬いた。キラキラと光る、まるで日光のような温かさを持つその光は、二人の周りをくるくると回って、やがて収束する。その光が収まったのを確認してから、双子はもう一度行ってきます、と口にして玄関を出た。

 クニミネの家は、代々魔法使いの名家として知られている、古い家だ。海の近くにあるこの建物も、少し古いがたくさんの部屋や設備を有した豪邸。現在の当主である祖母は勿論、彼らの母も魔法使いだった。けれども体の弱かった母は、彼らを産んだ時に亡くなり、双子は祖母に育てられた。

 本来ならば、次の当主はカナが踏襲するのが順当だが、カナは魔法が使えない。正確には、魔法を使うための魔力を作ることができない。そういう体質だと、幼いころに医者からの診断を受けている。妹のイトは、まったくゼロであるカナとは違って、僅かながら魔力を作ることが出来ているそうだが、それでも魔法を使わせるほどではないと、祖母は決して彼らに魔法を教えることも、ましてや使わせることなどなかった。曰く、魔力を使わずに魔法を使うということは、命を削ることとイコールだという。若くして夫、さらには娘を亡くした祖母は、双子の命をとても心配するのだ。

 魔法の使えない生活に不満はなかったが、申し訳ない気持ちもあった。大きな家だ。未だにいろいろなところから助けてほしいと要請が来る。いくら若々しいとはいえ、祖母にはそれなりの負担がかかっているはずで。

 朝のおまじないをしてもらう度、カナはそうして少し寂しくなる。本来なら自分も。無いものねだりな自分が顔を出してしまうのだ。そんな気持ちを振り払うように足を進めると、隣で唐突に、イトが大きな声を上げた。

「……なんだよ」
「いっけない、忘れ物!! カナくん先に行っていて!」
「はぁ?」

 カナの返事を聞かずにイトは踵の高いローファーをかつかつ鳴らして家の裏に駆けていった。そこには、海の入り江が広がっている。そんなところにいったい何を置き忘れたというのか。

「遅刻するぞ」

 どうせそのままにしていたら、ちんたらと登校して遅刻する。本当に世話の焼ける妹だ。走っていくイトの後ろを、ゆっくりと追いかける。森の奥、開けた入り江に、見慣れた後ろ姿を見つけて、イト。そう声をかけようとしたその時、イトとは違う人影がもう一つ存在していることに気が付いた。

 亜麻色の髪の毛を、首下で緩く纏めた男性。口元には穏やかそうな笑顔を浮かべている。そして入り江の岩の上に座っているその下半身は、紛れもない魚のヒレ。

 人魚だ。

 童話や言い伝えの中でしか生きていけない、伝説の生物とばかり思っていた。唖然とするカナの様子に、イトはわかりやすく動揺する様子を見せた。

「あっ……、カナくん!」
「……知らない奴と話すなってあれだけ……」
「いっ、いい人なんだよ、海で助けてくれたんだ、私、魔法を貰ったの!」
「……はぁ……?」

 そういって嬉しそうに、にんまりと微笑むイト、隣で同じように笑う人魚。二人の笑みはよく似ていた。イトは、こんな風に笑う子だっただろうか。潮騒の音が、耳鳴りのようにやたらと響く。


//潮騒に惑う(幸福-1)

2015-08-05
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