それを贈り物と呼べるのか

 初めて人ならざるものを目にして以来、形容しがたい気持ちがカナの中をふわふわと浮遊していた。いないと思っていた生物が、呼吸をして、笑って、こちらの名前を呼んだのだ。わざわざ複雑に話を広げた授業を行う教師の声を聞き流しながら、カナは何ともいえない気持ちを持て余す。何が起こったって、おかしくない世界なのかもしれない。カナが住む首都――帝都には少ないが、世の中には角や獣の耳、尻尾が生えた人間だっていると聞く。それならば人魚だって、いてもおかしくはないだろう。

 そう理性的に考えてしまえば、それでお仕舞いの話だったが、カナにとっての今回の逢瀬は単純に異文化に触れたという事実だけではなかった。自分よりも先に、その異文化に触れたのは他でもない双子の妹だ。ずっと一緒に過ごし彼女の前から危険を排除してきたというのに、彼女と人魚がどれくらい前から過ごしていたのか、そしてどんな話をしていたのか、カナはさっぱり知らなかった。自分より弱い女性であり、片割れであり、無邪気で優しいイト。そんな彼女を守ることが、カナにとっては重要な事だった。

 ホームルームが終わり、カナは手持ちの荷物を鞄に詰めて、立ち上がる。途中でクラスメイトが遊びに誘ってくれたが、今はそれよりも気になることがあった。

「カナくん」

 教室から出ると、低いところで二つ結びにした髪の毛をふわりと揺らした妹が、ぎゅっと後ろから抱きついてくる。

「珍しく早いな」
「うん、今日はりょうちゃん先生がお休みだから、代理の先生だったの」

 双子であるイトはカナとは別のクラスだ。幼稚園までは一クラスだったから文字通り『いつでも一緒』だったのだが、小学校からは一度たりとも同じクラスになったことがない。教師達の何かしらの配慮なのだろうか。よくは知らないけれど、それはカナにとっては少し不都合だ。

 抱きついた背中から腕を絡めてくるイトの、自分よりも低いところにある頭を見下ろしながら、カナはふうんと気のない返事を返す。下駄箱までたどり着いて、先にイトの靴をとって手渡してやると、花が綻ぶように彼女は笑顔になった。もとより過保護である自覚はある。けれどもこの笑顔には、誰しもが陥落する程の威力があるのではないか。身内贔屓かもしれないが、自信を持ってカナはその意見を掲げることが出来た。

 下校途中、イトは今日あった事をカナに細かく話し出す。口数の少ないカナはそれに僅かな返事を返すだけだったが、それでもイトは楽しそうだ。海面を撫でて塩の匂いを纏った柔らかな風が、ふわりと頬を撫でてイトの髪の毛を浚っていく。

「カナくん」
「ん」

 改まった雰囲気の呼びかけに、カナはそれまで返していた生返事に少しだけ真剣さを足した。眼下のイトは、意気込むように肩を強ばらせて、聞いて欲しいことがあるの。と、少しだけ不安そうに口にした。いいよ、と返すのは最早条件反射。たとえどんな告白だろうと、彼女の言葉は必ず聞き届けたかった。


***


 再びやってきてしまった入り江に、人魚の姿はない。考える暇さえ無かったカナの即答を聞いてから、イトは足早にカナを誘った。

「魔法をね、貰ったの」

 高揚した様子は、その表情を明るく彩った。それだけ口にして、イトはカーディガンと履き物を脱いで、そっと入り江に素足を浸した。そうしてゆっくりとカナの手元から離れていく。イト。呼びかけにも構わずに、イトはそのまま海へと足を進めていく。

「カナくんも、おいでおいで」

 振り返った無邪気な笑顔にため息を付いて、カナも履き物を脱いでそれに続いた。伸ばした掌をぎゅっと握りこまれ、海の先へと進んでいく。やがて入り江の入り口、開けた海が望める場所にまでたどり着いたころには、水深はカナの胸あたりまで来ていた。笑みを絶やさないイトは、すうっと息を吸い込んで、それからカナの手を引いたまま海の中へと潜り込んだ。当然カナも引っ張り込まれるように海へと沈む形になる。久々に感じる水の揺らぎが、こぽりこぽりと鼓膜を弾いた。

 頬をつつかれる感触にそっと目を開くと、夕焼けの光が差し込み複雑な色合いをみせる海の中、相変わらずの笑みを浮かべたイトがそこにいた。

 その頬に、不思議な色でキラキラと輝く鱗を生やして。

 見慣れた妹の笑顔に謎の因子を発見して、思考回路が混乱する。戸惑いは泡となり、水面に浮かんでいくだけで音を成さなかった。驚いたカナの表情に、イトはにこにこと笑みを浮かべるばかり。驚きに空気を失ったカナの呼吸は長くは続かない。呼吸を求めてイトよりも先に水面から顔を上げると、新鮮な空気が肺を焼いた。

「……イト?」

 握られた手はそのまま、カナを安心させるようにカナの手を握ったり解いたりしていたが、とうの本人は一向に上がってこない。どうしたんだろうと、もう一度空気を大きく吸い込んで海水に体を浸すと、先ほどと同じように笑顔のイトが水中に居た。

 そうして彼女はそっと水面へと浮かび上がると、カナが同じく顔を出すなり、「私ね、海で呼吸が出来るの!」酷く楽しそうな顔で、そう言って笑った。

 その頬に先ほどまで輝いていた鱗は何処にもなく、見間違いではと夢を見ているような気持ちのカナだけが、何度も瞬きを繰り返す。どういうことなの、と、そう聞き返そうとしたとき、二人が立てたのとはまた別の水音が背後でぱしゃんと弾けた。

「やぁ」

 人好きのする明るい声だ。カナとはまるで違う、イトには少し似ているだろうか。つい最近聞いたばかりのその声が誰なのか、人の顔をすぐに忘れてしまいがちなカナにだって分かっていた。振り返ると予想通りの人魚が、入り江の中で海面から顔を出した岩に座っていた。きらきら輝く緑色の鰭はそのままだ。

「……あんたが、イトに」
「あはは、だって、僕が羨ましいっていうんだもの」

 人魚は無邪気に笑っている。こちらの事情はまるでお構いなしだ。

「イトは、……魔力が少なくて、魔法を使うのは危険だって」
「あれ? そうなんだ。イトちゃん、それは困ったね」
「でもでも! 使っているうちに増えたりするかも!」
「……イト」

 静かにふつふつと訪れるカナの怒りは、彼らに対するものではなかった。怒りの姿を借りたその感情は、どちらかというと後悔だ。祖母から何度も告げられた「魔法を使うのは危険」という言葉を、彼女に深く言い聞かせられなかった、自分への後悔。そうしてその感情を敏感に感じ取ったイトがそっとカナの手を取るまで、カナはずっと祖母の悲しむ顔を想像していた。

 「大丈夫、ごめんね、大丈夫だから、私、ちゃんと気をつけるから」

 いつも笑顔のイトが形の良い眉を落としているだけで、酷く悪いことをしてしまった気分になる。握られた掌は暖かく、いつもならカナを安心させてくれるのに、今回はそれがないのはきっと、この場に余分な第三者がいるからだ。イトに対して何か苦言を言うこともできず、カナは人魚へと辛辣な視線を投げた。受け止めた人魚はまいったな、とでもいうように大げさに肩を竦める。

「ほら、心配なら妹と一緒に海で泳いでやればいいんじゃないかい?」
「……それは、」
「?」
「俺は泳げない。海は特に、嫌いだ」

 カナが告げた自身のコンプレックスに、人魚は何故だか少しだけ驚いた顔をした。ひらりと鱗が生えた手を翻し、岩場から腰を上げて海水に飛び込む。そうして数瞬もしないうちにカナの目の前に浮上し、その亜麻色の瞳をきらきらとさせて、イトが握っている方とは逆の手を握って、にっこりと笑った。

「……じゃあ、同じ世界を見れるように、君にも魔法をあげよう」
「もらったところで意味がない。魔力がない」
「……やれやれ、君は出来ないことがたくさんだね」

 呆れたように苦笑い。そんなことを言われても仕方ないじゃないか。反論の言葉を告げようと開いた口を、そっと人差し指で押さえられる。握られたままのカナの左手薬指が、彼の指で撫でられ、瞬間赤い光が立ち上った。間近でみる魔力の飛翔に、たじろいだのはカナだけではなかった。ひゃ、と小さく高い声をあげるイトの声を背景に、人魚はやはり笑顔を浮かべて、もう一度カナの指を撫でる。

「じゃあ魔力も誰かに貰えるように。ぼくが、しばらくの分は君にあげよう」

 赤い光がゆらりと翻っていく。海面を撫でるようにして反射するその光は夕焼けのものよりも更に赤い。ゆらゆらと立ち昇った光は、やがてカナの左手薬指に収束し、「貰い物をするなら、ここが一番じゃないかい?」その爪に、血のように赤い、複雑な模様をつけた。


//それを贈り物と呼べるのか(幸福-2)

2017-03-04
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