掬われた手

 リーテンガルは、日に日に何か違うものを見るようになった。たとえばそれは、あるはずもないドアノブだったり、赤毛の少女を見る度に今はいない人の名前呟いたり、そういったことだ。それだけならまだしも、『違うもの』を見ているという自覚がないのだから、性質が悪い。以前よりも少しだけ意図して彼と過ごすようになるにつれ、症状がエスカレートしていくことも気付いていった。火をつけた煙草をふかすこともせずに、ぼうっと意識を何処かに置き忘れてしまっているリーテンガルの横顔を見て、危ういと、率直に思った。

 彼女が居なくなって、――正確には失って、まだ数週間しか経っていないが、それ程までに彼女の存在がリーテンガルにとって重要だということも、とうの昔に気付いていた。でなければ、強引にとはいえ、こんな偏屈な人間が誰かと一緒に過ごすことなど出来なかったろう。

「リィ」

 静かに呼びかけた声に、リーテンガルは肩をぴくんと跳ねさせて、それから取り繕うようにして生返事を返してきた。自分でも、どんな事を考えていたのか覚えていない顔をしている。

「唇、燃えるよ」
「あー……、もったいね。最後の一本だったのに」

 根本まで近付きつつある火種に、リーテンガルは小さくため息を付いてその有害物質を灰皿まで近付けた。静かに行った動作ではあったが、微かな振動に蓄積された灰がぽとりと落下して、床を汚す。

「……ついでにやめたら。喫煙者は流行らないよ」
「軽く言うけどなぁ、お前でいうところの『イトと話すの禁止』くらいしんどいぞ」
「それは、……ちょっときついかもね」
「だろ?」

 にっと力なく引き上げられた口端も、以前の彼に似せようとしたものだ。リーテンガルは日に日に、違うものになっていく。カナと出会ったあの頃よりも、脆く、危うく、それでいてそんな自分を偽り、過去の自分に成ろうとしている。そのことを色濃く理解するたびに、カナは思うのだ。リーテンガルという人間は、彼女を得た時にやっと形作られたのだろうと。

「リィ」
「ん」

 そっと引き寄せた肩は、思った以上に細い。自然と縮まる距離にその唇を啄むと、リーテンガルは小さな声で、くつりと微かに笑みを零した。なに。ぶっきらぼうながらも楽しそうな声だ。同じようにぶっきらぼうに、なんとなく。それだけを返してみせると、あの頃の光を無くした水晶玉のような瞳が、ゆっくりと細められた。そうしてその表情に、カナの胸の深いところがずきりと痛む。いつもなら、ここでからかいの言葉が返ってくるはずなのに、以前とはまるで表情が違う。日に日にリーテンガルは、――。

 焦る心が小さな痛みを芽吹かせた。そのままソファの上にリーテンガルを押し倒す。尚も微かな問いだけを投げかける彼に、呼吸が止まりそうになった。彼が失ったものは、きっとカナにとっての片割れと同等の存在だ。彼女が一緒に持って行ってしまった心は、きっとカナでは取り戻せない。止まったままの呼吸を思い出せずに、リーテンガルの肩口に額を押しつけカナは小さく声を零した。やがてリーテンガルの掌が、カナの背中に回される。子供をあやすように、ゆるりと叩かれるそのリズムが何故だか妙に安心できた。すう、と大きく空気を取り入れて、それから彼に、伝えようと思った。誰でもない、普段無口で言わずにいる自分の気持ちを。

「お前ってすぐくっついてくるなよな、ヒミツ」

 言葉の意味が、理解出来なかった。がばりと体を起こしてみたらリーテンガルは普段と変わらない顔で、こちらを見上げてくる。

「……は、なんだよ」

 今度はいつもと同じ声だった。

「名前」
「は?」
「名前、呼んでよ」
「……カナ?」

 帰ってきた声に、ほんの少しだけ安心する。カナの名前を呼ぶときに、低くなる声もいつも通りだ。それでも聞き違いだと、そう思いたいカナの気持ちを裏切るようにして、リーテンガルの笑顔は、やはり空虚だった。リーテンガル・シャエランは、もうカナの手の届かないところにいるのかもしれない。


//掬われた手(リーテンガル×カナ)

2016-11-11
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