いとしさにえみ
閉館間近の水族館は静謐とした静けさを放ち、いつもどこか、物寂しい気持ちにさせる。それでもその時間を選ぶのは、人がいない水族館ならば二人きりになれるからだ。入館するなり足を運んだ一番大きな大水槽の前では、全身を真っ黒に染め上げたカナが観賞用に並べられた一人掛けソファに腰かけ、分厚い本を開いていた。
これもいつものこと。代わり映えのしない後ろ姿に呆れたため息をついて、リーテンガルはそちらへと歩を進める。カナ。そっと声をかける。けれども返事はない。いつもだったらどんなに小さな声でも、なんだったら僅かな気配ですら、すぐに気が付くカナなのに。
不思議に思って目の前に回り込みその様子を伺ってみると、いつもどこか気怠そうに開かれている銀の瞳が長い睫に隠されていた。呼吸に合わせてゆっくりと上下する肩。どうやら眠っているらしい。神経質な彼にしては珍しいこともあるものだ。
思い返せば、最近水族館でイベントをするとも言っていたか。イベントごとを殆ど一人で手配している、その重圧とは如何程のものなのだろう。流石に起こすような野暮なことも躊躇われ、左隣のソファに腰を下ろし、その横顔をぼんやりと見つめていた。
少し長めの黒髪、いまは隠された銀色の瞳。大水槽の水の反射で薄く青みかかった横顔。見た目はまるでなんでもない『普通』なのに、どうしてこんなにも彼に惹かれてしまうのだろうか。穏やかな寝顔を見つめ、頬杖をつきながら思う。最初に此処で出会った時からずっと、ふわりと妹に見せる愛しげに眉を下げた笑顔が忘れられずにいた。もう一度、見る為には、どんなことをすればよいのだろうか。
そんな、取り止めもないことを考えていると、唐突にその長い睫毛が震え視線をずらした銀色の瞳が何度か瞬きをしてリーテンガルを捉えた。
「あれ、あんた……」
「よぉ」
「……うん」
「居眠りなんて珍しいな、坊っちゃん」
にっこりと茶化すために笑みを浮かべてみせると、カナはバツが悪そうに少し乱れた前髪を撫でつけた。壁に掛かった時計の時間を読み、一息吐き出してからソファに深く腰かけなおす。
「たまにはね。……あんた、何しに来たの。もう閉館だよ」
「いや、別件で帝都に用があってな」
「……答えになってない。閉館したら俺は帰るよ」
「帰るって、上だろ」
「そうだけど」
閉館時間まで残り十五分。だれもいない大水槽の前で静かな会話を繋げる、この時間がとても好きなのだ。だからいつだってこの時間を選ぶ。
訝しげな顔をしてリーテンガルを見やるカナは、その返事をした後に僅かに眉間に皺を寄せた。まるでリーテンガルが何を考えているのか悟ってしまったような顔だ。
「……泊まっていくのは構わないけれど、……今日は、イトも上で寝る」
「へぇ? まだ何も言ってないけど?」
「あんたには必要なクギだよ」
するりと逸らした視線に何処か熱が篭もっていることを、リーテンガルは見逃さなかった。耐えきれなくなったのであろう、カナは閉じた本を手に立ち上がる。ひらりと黒いコートを棚引かせ、上階へ向かう特別なエレベーターへと歩を進めていった。
素直じゃないやつだなぁ、なんて堪えられない笑みを零すと、徐にその後ろ姿が振り返り、
「……ふ、なにそのだらしない顔」
なんて、眉を下げて愛しげに笑った。
――笑った?
//いとしさにえみ(リーテンガル×カナ)
2019-03-09
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