溺死寸前に逃げ出した

 リーテンガル・シャエランは、美しい支配者だった。
 
 ファミリーネームの重圧に負けることなく輝く水色の瞳は、視線の一刺しで他者の心を射抜く事が出来た。だというのに、いつからその色が濁ってしまったのだろう。気付けば彼の瞳には、水面に漂う波紋のように、ゆらゆらと涙の奥に形容しがたい悲しみの感情がたゆたう様になっていた。誰も触れない場所で、ただ、ゆらゆらと。

 ***

「リーテンガル、居るかい?」

 砂の街に訪れる夏は酷く生きにくい。茹だるような暑さに、首もとから流れる汗を拭ったユウレは小さく息を吐いた。呼吸をするごとに、肺に潜り込む熱気に喉が詰まるようだ。

 ノックしたドアの向こうから返事はない。どうせ仕事に夢中になっているか、眠っているかのどちらかだろう。自身の周りをくるくると旋回していた二頭の蝶を指に止まらせ、そっと空へと放つ。最早お決まりになってしまったその行動に、彼らは文句を言うこともなく、三階立ての建物に沿って上昇した。

「ユウレ! 起きてる!」
「起きてる! 男の人がいる!」

 少しして上空から落ちてきた報告は、ユウレにとって予想外だった。リーテンガルが家に自分や『彼女』以外の人間を入れるなんて今まであり得なかったことだ。驚きも数瞬の間に、蝶たちの甲高い声に気付いたらしいリーテンガルが三階の窓からひょっこりと顔を出した。あの頃から全く変わらない童顔をわかりやすく苦く歪めた彼は、よぉ、と簡単な挨拶を口にした。

 約一ヶ月ぶりに敷居を跨いだその家の中は、クーラーでキンキンに冷やされていた。おそらく暑がりの家主が行った所業だろう。そんな室内で半袖のYシャツに丈の短いボトムと限りなく軽装をしている家主と反対に、もう一人の『滞在者』は夏だというのに黒いカーディガンに身を包んで苦笑いをしていた。

「環境破壊というものをまったく考慮しない男だね、君って奴は」
「俺が来るまで十四度に設定していたんだよ」
「気が狂ってる」
「違いない」

 口々に揶揄された側は、苦い顔をしてこの場から逃げようと目を反らす。

 滞在者はユウレもよく知る人物で、その名前をカナと言った。探偵であるリーテンガルの依頼人であり、ユウレの図書館に頻繁に出入りするようになった青年だ。ぶっきらぼうで愛想を振りまかない性質だったが、心根が優しく、話しているとすっと心が落ち着くような雰囲気を持ち合わせていた。決して長い付き合いではないけれど、ユウレは彼のそんな雰囲気がとても好きだった。

 リーテンガルが家にまで踏み込ませているということは、おそらく彼も似た気持ちなのだろう。カナの苦言をなんとか振り払おうと、両耳を塞いで舌を出している彼を見ながらどこか嬉しい気持ちになった。

「第一、お前はなにをしに来たんだよ」
「相変わらずのお言葉だね……。好きだと言っていた茶葉が手に入ったから、お裾分けだよ」

 肩に下げていた鞄の中から、紺色に金色の縁取りがされた紅茶缶を取り出す。鞄の金具と触れ合って高い音を立てるそれに視線をぐっと引き寄せられたリーテンガルは、現金なことに打って変わって嬉しそうな表情をその端正な顔に浮かべた。隣で見ていたカナが小さくため息を吐く。

「じゃあ俺はもう帰るよ」
「はぁ? まだ話は終わってねえだろうが」
「どちらにせよ、話を続ける気なんてなかったんじゃないの、リィ」

 ふ、と吐息の隙に隠れてしまいそうなくらい、仄かにカナが笑った。笑った、と認識したのも束の間、一瞬で立ち消えてしまった表情にリーテンガルが二の句を失う。あらあら、まぁ。と、ユウレの悪戯な老婆心がうずいて来る。

 珍しいとは思ったが、そういうことだったか。二人の痴話喧嘩を聞きながら、これは長くなりそうだと判断して近場にあったイスを引き寄せ座る。すぐに太股の上に羽を休めにきた蝶たちが、どういうことか頻りに尋ねてきたが、その全てに「まぁまぁ」だなんて曖昧な返事を返した。

 思い返せば、仕事から関わった関係にしては少々特殊だったようにも思う。片方が発言する度もう片方の表情を観察しながら、そんなことを思った。次第に喧嘩の勢いは収束し、最終的にリーテンガルの方が折れた。

「わかった、じゃあ茶だけ飲んでけ」
「……まぁ、それくらいなら」

 承諾の返事を聞いたとき、リーテンガルが露骨に嬉しそうな顔をしたことを見逃しはしなかった。こちらへと視線を向けて、寄越せとばかりに差し出された手のひらへと紅茶缶を手渡す。「サンキュ」と短く礼を言うその横顔は、まるでユウレの知らない人だった。

 ユウレはずっと傍にいた。リーテンガルの隣で、彼の変化をじっと見つめていた。

 だからこそ弟のように身近に感じ、今でも彼を大事に思っている。そんな彼が目の前で、あの頃とは違う酷く穏やかな表情を浮かべていた。それが笑顔だと認識した瞬間に、そっと心のどこかで詰まっていた息を吐く。

 逃げ出したことを心のどこかでずっと後悔していた自分が、すっと溶かされていくようだった。あぁ、あの時無我夢中で彼の手を引いた自分を、今なら混じりっけなしに褒めてやりたい。


//溺死寸前に逃げ出した(リーテンガル×カナ+ユウレ)

2019-09-08
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