僕らは星を、掴めない

 その闇は、日々光を食べて生き長らえていた。星、月、街灯、民家、ヘッドライト、灯台。もはや、光なら何でもよかった。尽きることのない食欲に突き動かされ、光を食い漁るのと比例して、闇は少しずつ『形』を成していった。そうして気付いた時には、人の姿をしていた。

「そろそろ気付いたぁ? それが僕って訳。」

 薄暗がりの路地裏に、可愛らしい少年の声が反響する。愉快そうでありながら、どこか憎らしい響きを醸し出すその声に、男の本能は身の危険を察した。けれども一歩後ずさると、相手も一歩足を踏み出す。

「天使だって、」
「天使だなんて一言も言ってないよぉ。勝手に思い込んだだけじゃない?」

 相手はやはり愉快そうだ。青いセーラーカラーの服、可愛らしい顔の造形。何より頭と腰に生えた白い翼。天使にしか見えない顔に乗せた表情は、酷く高揚して、更に酷く凶悪だ。引き上げた口角に舌を這わせて微笑む。腰の白い翼に留められた青色の布が、まるで意思を持つかのように棚引き蠢いた。男が悲鳴を上げるより先に、その布と腰羽は、何かを形作る。

「おなかすいたんだ。光じゃもう足りなくって」

 恥ずかしそうに長い袖で彼が口元を隠したその時、『何か』が伸びてきて一瞬で男の眼前に迫った。鋭い牙に、粘液を垂らす舌。そのどちらもが、布と同じ青色。あぁ、これは口だ。巨大で、凶悪で、醜悪な、口だ。

 そう男が認識した数瞬の後、路地裏には少年一人が残された。彼の背から生えた翼は、先ほどまで男が着ていた服の切れ端を引っ掛けたまま、元の翼へと形を戻していく。少年は満足げな笑みと共に、ただ一言だけ呟いた。

「ごちそうさま」

 路地を振り返る動きに連なって、揺れた紺の髪には金色が混じる。まるで彼が今までに食べてきた光を表すかのようだった。


◆◆◆


 ちょっとちょっと。そんな嗜めの言葉が上から飛んできたのは、口の中のキャンディーを噛み砕いた時だ。次第に明るくなっていく東の空は、真っ暗だった視界をほんの少しだけ見通し良くしてくれる。けれど、やってくる朝は嫌いだ。『食事』の際に何かと都合が悪いし、少年の性質は元より夜を好む。そんなわけで若干不機嫌だった少年は、声をまるまる無視をして座り込んでいた電信柱の上で胡坐をかいた。

 無視を決め込まれた側は、彼の態度に苛立ちを隠しきれていない口調で、再度呼びかける。少年が座り込んでいた電信柱の影が、ざわざわと浪打ち何かの形を成した。それは静かに浮かび上がり、影の向こうから白い腕がゆるりと現れる。一瞬遅れて全貌を見せたのは、一人の少女だった。こちらも端正な顔をしている。オレンジ色の鮮やかな髪が、夜明けの空によく映えた。

 相手が彼女であることなど、わかり切っていた少年は驚く様子すら見せない。それどころかキャンディーの棒を口から取りながら、どうしたのぉ?なんて呑気に返して見せる。少女はとんでもなく不機嫌そうな顔をさらに歪めて自分の腰元に手を当てた。

「レーリ。今日君が食べた男、Rの獲物だったんだけど」

 可愛らしい顔に不機嫌な表情を浮かべたとて、大した迫力はない。――まぁ、彼女がどんなに恐ろしい外見だとしても、少年、レーリは怯んだりしなかっただろうが。今日食べた男、と言われて、そういえば一人食べたのだと思い出す。美味しくも不味くもない中年男。勝手に彼を天使だと思い込んだから、ちょうどいいと思った。

「そんなの僕は知らないよぉ。名前でも書いてればよかったじゃない」
「どうやって書くっていうのさ」
「簡単だよ。デコのとこにさ、RJDってさ。三文字でいいから楽じゃない?」

 キャンディーの棒で、言葉通り空中に描いて見せる。RJDと呼ばれた少女は彼の提案に、先ほどまでこの上なく不機嫌だった顔をパッと明るくして、それもそうだね、なんて笑って見せた。レーリとしてはそんなに単純に納得されるとは思わなかったから、少し拍子抜けだ。けれども次に返ってきた「またRの獲物食べたら、レーリが獲物だからね」という露骨な釘に、納得せざるを得ない。そうなったときはそうなったときか、なんて思いながら軽い返事をする。

 RJDはこの世界で唯一のレーリと同じ、人ならざる者だ。元来レーリは自分以外を拒絶するつもりだったから、招かれざる客と呼んでも構わないだろう。悪意から生まれ、影の中に住む彼女は他者の破滅を何よりも喜ぶ。

「あ、そうだ」

 二本目のキャンディの袋を開けた時、RJDがふと何かを思い出して声を上げた。

「なぁに?」
「最近箱庭、変なんだって」
「変って、何がぁ?」
「東に崖があるでしょ。あそこ、空間が歪んでるっていうの? 対岸が見える」
「うそ」

 余りの言葉に信じられず、レーリは咄嗟に示された場所の方角へ目を向ける。この世界はレーリが思った通りの場所・広さに切り取られている。なのに対岸が見える、ということは、レーリの力以外の何かが働いているということだ。

「嘘じゃないよ。困っちゃうね、もしかしたら追手かも?」

 焦るレーリに、愉快そうなRJD。振り返ってはいないが、おそらくその瞳は爛々と輝いているのだろう。キャンディを口に含んで、レーリは立ち上がった。風を受け、大きな翼が音を立ててはためく。

「ちょっとお出かけしてくるねぇ」
「あはは、レーリ、大変だね」

 レーリの焦りを見抜いて追いかけてくるRJDの声が、酷く煩わしい。けれども今は彼女に構っている場合ではない。この世界はレーリの箱庭だ。そして繭でもある。誰かに破られるわけにはいかなかった。


//僕らは星を、掴めない(箱庭デッドリーシンズ 序章)

2017-09-01
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