エゴイスティック・ラブ
残念ながら『愛』という感情を、この小さな化け物は知らない。一緒に過ごし始めてから三ヶ月以上が経ったが、自分以外の対象に明確な形で親愛の素振りを見せることはなかった。第一、単語として認識をしている癖、その本質には理解が及んでいない事柄が多すぎるのだ。愛、友情、友達、死ぬということ、生きるということ、してはならない食事、他者が大事だということ。一度保護してしまったからには、再び誰かを傷つけることのないようにする勤めがある。随分厄介な拾いものをしてしまったなぁと思わずにはいられない。実際、拾ってからの日々は苛立ちと後悔の連続だった。けれども一つ一つ必要な事柄を教えていく、波乱に満ちた毎日の中、ふと気付いてしまった。
この化け物を『人』へと近付ける度に、シオン自身が化け物に対して『親愛』を抱き始めていることを。感情とは厄介なもので、気付いてしまえば急速に温度を持ち始める。
「しおんー」
今日も今日とて、仕事中は寄ってくるなと言い聞かせているはずの怪物が、後ろからその細い腕をシオンの首に絡めた。さらりと流れてくる少し長い横髪が、首筋を撫ぜてくすぐったい。無視を決め込んでいると、彼だか彼女だか――は、くすくすと鈴を転がすような可愛らしい音を零して愉快そうに笑った。なんで怒ってんのぉ、などと惚けた言葉に、思わずため息が出る。確か前回注意したのは昨夜だったし、これで総計十回以上の叱責なのだが。
「このクソガキ。昨日言ったこと、もう忘れやがったのか」
「えー? なんだろぉ? 葉っぱが不味いって言ったの怒ったやつ?」
「それもめちゃくちゃムカついたけどな」
檀家が丹誠込めて作ったレタスを、至極不味いと言いながらその口から垂れ流した時は、これは殴っても許されるだろうと白い目をしたものだ。菜食主義であるシオンの食生活は、いつもこの怪物の舌に合わない。
「ねぇシオン、かまってよ。じゃないと誰か食べに行っちゃうよぉ」
「うっせー、仕事してるだろうが。少しくらい待て」
「えぇ、ねぇね、隣の家の人が美味しそうだったの。シオンなんかよりずっとだよ」
冷たく返すほどに怪物は楽しそうに笑みを含め、意地悪くシオンの反応を伺っている。本心なのか、それとも気を引くための嘘なのか。残念ながら未だにその真偽を見抜けないシオンは、毎度本気にしなければならない羽目になるのだ。
首元に添えられた温度のない手のひらがするりと動く感覚に制止の声を投げる。けれども相手は変わらない態度で「やぁだよ。きっとシオンより美味しいもの」とこちらを煽って離れていってしまった。本当に言うことを何一つ聞かない怪物だ。シオンより美味しい、だなんて繰り返し告げる言葉で、こちらを焚きつけられるとでも思っているのだろうか。
あぁ、だめだと、心の何処かが警鐘を鳴らす。焚きつけられるはずがないと思っていたのに、どうしたって騒めく心をどう扱えばいいのか分からない。冷静な思考とは反対に、そっと唇が開く。
「待てって言ってるだろう、レイリ」
「……? れーりぃ?」
「……お前の名前だよ。レイリ。こう書く」
手元にあった半紙に、筆で漢字を二文字、書き示す。なんだか酷く気恥ずかしくて、怪物の顔を見ることは出来なかった。相手は相手で、最初こそ興味を持ったものの、文字を見るなりよくわからないとつまらなさそうにぼやいて、それからまたシオンの首に腕を絡めなおした。
「よくわかんないけど。それがあったらシオンは遊んでくれるのぉ?」
「お前はほんとそればっかりだな」
「ふふ。だって僕を捕まえたのはシオンじゃないか」
怪物は酷く楽しそうに、先ほど与えられた名前を舌足らずに繰り返す。レーリ、レーリ。少年の高い声が和室に木霊して、それが何処か恐ろしくも感じた。『レイリ』だと訂正をしながら、シオンは控えていた筈の煙草に火をつけた。
名前を通して与えたのは一種の言霊だ。詰まるところ束縛の意味も孕んでいる。無邪気に自分を必要としてくる怪物が、いつだって戻ってくるところは此処であるように。そんなことを考えてしまう自分が恐ろしく、案外この怪物より怖いのは自分の方なのではないか。細く吹きかけた煙を嫌がるレイリの顔にけたけたと笑って見せながら、底知れない感情を持て余していた。
いつかこの気持ちに名前をつけてしまう日が来ることが、酷く怖い。
//エゴイスティック・ラブ(シオンとレーリ)
2019-01-06
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