それでも美しき獣
帰宅するなり、家の中に違和感がある事に気付いた。異物という類のものではない、どちらかというとそこにあることが嬉しい、そんな違和感。廊下を進みリビングに視線を巡らせると、その原因はすぐに知れる。リビングの隅に設えた窓際のソファに、よく見知った存在が眠っていた。カーテンが開け放たれ差し込む日光が、その深い緑色の髪の毛を照らし柔らかな光を反射する。
「プランタン?」
小さく声をかける。反応はない。伏せられた瞳と、定期的に上下する胸元を認識して、やっと彼女が眠っていることに気付いた。こうして勝手に家に侵入されることにはすっかり慣れていたが、眠っている姿は初めて見る。眠る必要があるとは知らなかった。家主が不在の時には、大抵手持無沙汰に枝毛を探すか、一人ファッションショーをするか、そのどちらかだったのに。
何かあったのだろうかと、手にしていた荷物を置いてソファの傍に腰を下ろす。よほど深く眠っているのか、プランタンは物音に身じろぎさえしない。あまりの穏やかな表情に、起こすことも忍びなくて、立てた片肘に頬杖をついてその横顔を眺めていた。
プランタンと春隣は不思議な関係だった。
人と、人ならざる者。魔物と捕食される側。彼女がただの気まぐれで傍に居たがった。それだけなのに、出会ったころとは違う感情が心の隅に溜まっていることも、春隣は何となく気付いていた。気付いていたけれど知らないふりをしている。触れてしまえば何かが変わってしまうような、 歯止めが利かなくなるような、そんな気がして怖かったのだ。
プランタンの横顔を眺めながら少しずつ高揚する気持ちを抑えて、 毛布でも持って来ようかと自分を誤魔化すために腰を上げる。そうして足を踏み出そうとしたとき、小さな呻き声とともにプランタンが身じろぎをした。
「春隣、」
名前を呼ばれてどきりと心臓が跳ねる。目を覚ましたかと振り返るも、彼女の瞼は下りたままだった。身じろぎをした時に長く伸ばした髪が顔にかかったことに気付いて、 そっとその髪を払おうと手を伸ばす。さらりとしたその髪の緑色と、その先にある白い肌色とのコントラストが綺麗で、 思わずくらりと既視感にも似た何かが頭の隅を過った。髪ではなく、その頬に触れそうになる。そっと、伸ばした手のひらはそんな葛藤から行き場所を失ってしまった。
今ここで触れてしまうと、気付いてしまいそうで怖かった。プランタンの長い髪を掬うようにして手に取った。さらりと流れていく髪を追いかけるように口付けて、目を伏せる。
「……悪い子ね」
唇を離したその時に、甘い声が耳に届いた。跳ねる心臓の音を感じながら声の方を見やると、 いつの間にか目を覚ましていたプランタンが、 月と同じ色の瞳でこちらをじぃっと見つめていた。一瞬で恥ずかしくなって手を引こうとするも、それより先に掴まれてしまって叶わない。声にならない声を零して自由な片腕で口元を隠すと、 プランタンはゆっくりと優しく甘ったるい笑みを口元に浮かべた。
「おかえりなさい、春隣」
「……ただいま、」
身体を起こして、プランタンはいつも通りの言葉を口にした。
無かった事にしてくれるのだろうかと、 いまだ落ち着かない心臓の音を感じながら返事をする。そうして安堵したのも一瞬。掴まれた手に少しだけ力が込められて、そっと引き寄せられる。額同士が触れ合いそうな距離で、月色の瞳が春隣を射抜いた。
「どうして、髪の毛なのよ? どうせなら、此処でしょう?」
落ち着いた心音がまた煩くなる。そっとしなやかな指が春隣の唇に添えられて、惑うように逸らした視線を絡めとられた。挑発的なプランタンの目が、きらきらと甘やかに光る。
「プランタン、……あまり困らせないでくれよ」
「ふふ。夜の貴方ならきっとこうしたわ」
そっと重ねられた唇はとても優しかったというのに、ぐつりと心に妙な黒点が広がる。先ほどまでの高揚は心無い言葉に溶けてしまった。暖かいはずの唇の温度がやたらと冷えて、思わず強く目を瞑った。あぁ、やはり彼女は人外だ。こんなにも春隣の心を冷えさせる言葉をこともなげに放つ、罪深き魔物。
//それでも美しき獣(春隣×プランタン)
2019-12-01
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