俺の兄は賢い。

いつも飄々としている癖に、一夜漬けのテスト勉強であっさり学年一位をとってくる。きっとその成功には、彼の要領の良さが多分に影響しているのだと思う。それだけ彼のやることなすこと、すべて効率がよかった。先日両親が不在のときに炊事を肩代わりしてもらったときなんて、そんな時短の裏技あるの? と目から鱗が落ちるどころか弾けそうになった。しかもちゃんと美味しい。多分、母が作るよりも。

反対に俺はといえば、本当に兄弟かと思うほど要領が悪く、兄ならきっとすぐに覚えられる単語も三倍の時間をかけてしまった上に、肝心なところにケアレスミスまであると来た。返ってきたテスト用紙をじっとりと睨みつけながら、小さくため息をついた。

「五限、終わり?」

けれどもすべての空気を吐き切る前に、突然静かな声が頭の上から振ってきて驚きに息が詰まる。あまりのテスト結果に落ち込んで一時忘れていた。ここは図書館、他者がいるに決まっている。がっしりしたつくりの椅子に腰掛けた体を動かすと、こちらを覗き込むようにしていた青色の瞳と目が合った。それは視線を受け止めると柔らかく細まる。

「あ、はい。ベルナさんも仕事終わり?」

うっかり、ちょっと声が上ずった。相手の名前はベルナといった。この大学の図書館で最近司書を始めたという青年だ。そしてこれも最近、ふとしたきっかけで彼と知り合い、良くこうして話すようになった。さらさらとした細い銀の髪の毛を揺らしながら、彼は当然のように向かい側へ腰掛けた。腰を落ち着けて、ことり、首を傾げる姿は人好きの猫がするような仕草に似ていると思う。

「うん。仁義さん待ってる」
「あれ、遅いんですね」
「なんだかね、最近生徒と良く話すようになったんだ」

大学事務員と司書の定時は確か同じ時間だったはずだ。疑問を投げかけると、心なしかベルナはうれしそうな顔をする。そのまま肘をついた手に白い頬を乗せ、ふとこちらの手元に注意を寄せた。

「ユーヤ、それなに?」
「へ、……あ!」

目の前の彼の視線を追いかけるように下を向く。そこには今すぐ焼却処分したいミスが変わらず鎮座していた。

「いや、あの、さっきのドイツ語のテスト? みたいな?」

何が。みたいな? なのだろう。テストの類似品なんてあってたまるか。口に出る言葉とは反対にやたらと冷静な頭が突っ込みを入れる。慌てて両手で覆い隠したが、目の前にはすでに目がきらきらしているベルナが待っていた。

「ベルナ、ドイツ語ならできるよ。懐かしい。ユーヤ、習ってたんだね」
「いや、なんとなく受けたらボロボロ。めっちゃ恥ずかしい」
「ふふ、ドイツ語、変な言い回しするもんね」

くすくす、と笑いながらベルナは言葉通りにどこか懐かしそうだ。そういえば彼の目鼻立ちや、すらりとした長身は日本人とはかけ離れているとかねがね思っていた。言葉から察するにドイツ出身か、もしくはドイツの近辺の国で生まれたのだろうか。綺麗な笑顔を眺めながら、なんとなくそんなことを思っていると、唐突に「見てあげようか」とさらに笑みが深くなった。

「え」
「ボロボロのとこ。次間違えなきゃいいでしょ」
「あー、えー……、笑わない?」
「うん? ベルナ、もう笑ってるよ」

そうじゃなくて。冗談ではなく本当にそう思ってる表情を見て、思わずこちらが笑ってしまった。まぁ、答えを聞いてもさっぱりわからなかった内容だ。この機会に本場の人間に教えてもらうのもいいかもしれない。恥を掻き捨てテスト用紙を覆っていた手を外すと、それはするりと彼の手によって攫われていった。青色の瞳がいつもより真剣に赤い文字を注視する。掻き捨てたはずの恥がじわじわと戻ってきて、いたたまれない気持ちになった。

「ここね、この動詞にかかってくるから」

テスト用紙をこちらにも見えるように机に置きなおしたベルナが指差した場所は、優夜も自覚していないミスだった。指摘されたら、確かにそうだと納得する。得意というのもあながち嘘ではないのかも知れない。いつものんびりしているベルナからは少し想像がつかないほどに、理路整然と説明している様は、なんだか先生のようだった。

関心と驚きに、思わず聞き入ってしまったが、それをメモしなければ忘れてしまう自分の頭の悪さを思い出した。慌ててペンを取り出しもう一度を要求すると、彼はいやな顔ひとつせずに解説を繰り返す。ドイツ語の授業を受けているよりも、よっぽどわかりやすいかもしれない。なんて、そんなことを考えながら最後の一節を書き付ける。と、そこで小さな笑いの音がしたように感じて、ふと顔を上げた。そこにはやはり、とても嬉しそうな顔をして答案を眺めるベルナがいた。

「え、何かおかしいとこありました?」
「ん? んーん」

問いかけにベルナは言葉を濁す。それはまあ、これだけ赤色が踊っているテスト用紙なんて、面白いに決まっているけれど。笑わないでくださいよと半眼で睨むも、彼はより一層笑みを濃くするばかりだ。

「そりゃ俺は出来が悪いけどさぁ」
「ふふ、違うよ。あのね、ユーヤ、すごいなって思って」

予想外の言葉に、驚きの声が出た。すごい? 何がどうなってそんなことに思い当たるのか。

「きゅ、急になんスか」
「だって、ここ」

指し示された箇所は、やっぱり大きな赤いバツがついた箇所。長文を訳する問題だ。確か答えはこちらが思っているよりもストレートな訳で構わなかったようで、あれやこれやと考えて書き綴った回答は、今になっては少し恥ずかしい。間違えをそのまま指し示された恥ずかしさと、茶化されてると感じた憤りから顔周りが熱が持つ。そりゃ、きっと、他の人、――そう、兄だったら。

「こんな風に訳すのって、優しい人だよ」

首を擡げた負の気持ちが、すとんと地面に落ちた。さっきよりもずっと驚いた、それでいて間抜けな声が出たと思う。ベルナはなんの裏もない表情で、そっと回答用紙の下手な字をなぞった。ユーヤのそういうところ、好きだな。追撃で彼から贈られた言葉にやはり混じりっけはない。そんなことは初めて言われた。すべて兄より劣っている自分に、その切欠はないからだ。返す言葉を失ったこちらに、彼はきょとんと視線を向ける。それからやはり、人好きのする猫のように、笑みを深めた。――あれ、俺って優しい人だったの?




//月の裏側(優夜とベルナのはなし)







2021-05-26