進路が決定すると同時に、繋街という都心に近いベッドタウンへ越した。最終的に選択した大学は、あまり興味のない会計学科だった。その学科だったら、卒業後パパの会社を手伝うことが出来るかもしれない。あたしはいつだってパパが好きで、それなのにそのパパに対して何も親孝行できなかったから、これが最初の親孝行だと思ったのだ。

そうして大学を選び、あたしが越してからというものママはますます連絡をくれなくなった。入学までの間、一人きりの広い部屋で暇を持て余した。動物が好きだったから、絵を描いた。絵を描いていたらその動物に愛着が湧いて、名前を付けた。名前を付けたら彼は勝手にあたしの中で動き出し、彼の物語が出来た。そうして気付けばあたしの目の前には、森にひとりぼっちで住んでいるおおかみの絵本が出来ていた。興味本位で投稿した。そうして電話がかかってきた。あまり鳴ることのない流行の音楽は、あたしの狭い箱に酷く鮮明に響いた。


***


「担当を付けさせていただこうと思ってます」
「担当……?」

聞き慣れない言葉、慣れてなさゆえに居心地の悪い事務所の一室で、風香は相手の言葉を反芻した。目の前で風香の描いた絵本を微笑ましく見ているのは、恰幅の良い中年の男性だ。最初に電話をかけてきたのもこの人で、なんでもこの絵本をちゃんと世に出さないかと言う。投稿したのはあくまで趣味の延長線上であって、決してこんな展開になるなんて考えていなかったから、電話をもらった当初は軽いパニック状態だった。混乱のまま慌てて父に電話し、連絡のあった会社の名前を伝えると彼は酷く驚いた後、良いのではないかと言った。あの慎重な父が二つ返事にOKを出すくらいなのだから、おそらく風香が思っている以上にしっかりした会社なのだろう。慣れないことだらけの環境に挙動不審になってしまう風香を相手にしても、尚も柔和な笑みを絶やさない彼はゆっくりと頷く。

「といっても、そいつもまだ一年目なので、私もサポートします。真田〜」

そう外へと呼びかけると、その先から出てきたのはいかにも真面目です、といった言葉が似合う青年だった。黒い髪、黒い瞳、黒い眼鏡。目立ちはしないが気を張った精悍な顔立ちからきっと頭が良いのだろうなと感じられた。――けれどもその横髪の自由奔放な跳ねっぷりはどうにかならないのだろうか。

そんなことを考えながら、風香は何処か現実味のない感覚で目の前に置いてあったお茶を一口嚥下した。バインダーを抱え、慌ててこちらへとやってくる姿がどこか子犬のようだなとも思ったが「初めまして、真田真柴といいます」ぎこちなく笑っている、というか、ほとんどしかめっ面のままそう自己紹介する姿に、子犬といってもチャウチャウとかそのあたりだろうか、とも思う。なんにせよ動物にするなら犬だ。飼い主や大好きな相手に対して尻尾を思い切りぶんぶん振ってる感じ。

「……はじめまして」
「先生の担当をさせていただきます。よろしくお願いします」

風香の目の前で、ご丁寧に四十五度のお辞儀。思いの他に丁寧な対応をされてしまうと風香もどう出たらいいのか分からない。何せ今まで人を避けて過ごし、アルバイトすらしたこともないのだ。とりあえず軽く会釈をする。真田真柴と名乗った青年は上司に促されて風香の前の席へと座り、座るなり机の上に置いてあった風香の絵本を見て先ほどとは違うふやけたような笑みを浮かべた。

「作品、読ませていただきました。僕、すごく好きです。おおかみくんのキャラクターは読む人の気持ちを暖かくさせますね」

ぎこちない笑みは変わらない。それでも風香の絵本を見る目はまっすぐで、彼の性格を顕著に表しているようだった。

「まだお若いですし、困ったり大変なこともたくさんあると思います。……けれど、僕は是非、色んな人に、作品を見てもらいたいです。 きっと、その人たちも優しい気持ちになれるはずですから」

自分の作り出した物を、そんな風に評価されたことは初めてだった。昔から絵を描くことは趣味だったが、母は風香の行動に無関心だったし父には見せたことがなかったのだ。だからこんなに胸が熱くなるのだろうか。ぐっと喉が焼けるように熱くて、言葉を発することが出来ずに、風香はただ小さく頷く。

「ありがとうございます。僕、先生と一緒にがんばりますね。」

他人事のはずなのにまるで自分のことのように嬉しそうなその声は、狭くて小さな風香の世界がゆっくりと広がっていく音だった。




//着信音と君の声(真柴と光香のはなし)







2018-01-06