ささやま光香という作家は、想定の遥か上をいく。可愛らしい目鼻立ちをしているのに驚くほど身支度に頓着がないところ、普段は家から出ないという引きこもり具合、動物好きを拗らせており、その類の話になると時間を忘れるところ。そしてもっとも驚かされたのは、その仕事の早さだ。眠たげに目を擦りながら差し出された茶封筒の重みに思わず唖然としてしまった。 「光香先生はほんと、人間としての生活してます? 三日前打合せしたばっかりですよね?」 「え、ちゃんとしてるよぉ。今日は十時間寝たし」 尚更可笑しい。普通の人間だったらこのページ数、三日だなんて日数では到底仕上げられないはずだ。それなのに彼女は十時間寝たと言っただろうか? 真柴は驚きを持て余したまま、そっと封筒の中身を取り出した。水彩絵の具で描かれたイラストは柔らかな色合いと黄色い差し色が暖かく、どこか春の訪れを感じさせた。光香の描く絵は、いつもそうして四季を連想させる。決して直接的に表現はしていないというのに、絵というものは不思議なものだ。真柴が原稿に目を通している間に彼女はソファから立ち上がり、キッチンへと吸い込まれていった。 一枚、二枚、ページを手繰り物語を追っていくと、最後のページではこのシリーズの主人公である狼が、おっかなびっくり森を出ようとするシーンで終わっていた。そこで真柴はふと首を傾げる。先日打合せした時、この作品の最後は上手くいかないなぁと暖炉の前で首を傾げる呑気な狼、というラストだった筈だ。 絵本の中でメインの主人公として据えているのは彼女が『おおかみくん』と名付けた狼だ。誰かと一緒にいたいくせにやや乱暴な性格と鋭い爪や牙の所為で失敗を繰り返しているキャラクターで、普段はあまり森から出ることが出来ずにいる。そんな彼にとって、今回の展開はなかなかの冒険だ。丁度両手にマグカップを持って帰ってきた光香に問いかけると、彼女は少し照れくさそうに笑った。 「んー、ちょっとねぇ。頑張ってみたいって、おおかみくんが言った気がして」 向かいのソファに戻ってきた彼女は片方を自分の前、もう片方のカップを真柴の前に置いて「変かな」なんて少し自信がなさそうに言った。自分の作品に対して、これと決めたら譲らない傾向にある光香にしては珍しい。こうしておおかみくんが外に出ようとするのなら、恐らくいままで話していた今後の展開や、流れは大きく変わってくるだろう。なまじシリーズものであるがゆえ、一度変えた展開は後々への影響力が強い。 それでも真柴はいいえ、と首を横に振った。おおかみくんが新しい一歩を踏みだすのなら、その後押しをしたかった。彼は乱暴な性格の裏に、いじらしくなるほど健気な心を持ち合わせているキャラクターだ。今まで光香が描いてきたそんな彼の成長に、胸を打たれる人がいても可笑しくない。実際真柴がその第一号だった。 「おおかみくん、外でお友達ができるといいですね」 「あははぁ、そうだねぇ」 大事に机の上へと置いた原稿を横目に、光香が用意してくれたマグカップを一言礼を添えて持ち上げた。ふわりと香る香ばしいコーヒーの香りが心地よい。 「でも光香先生、だとしたら今からみっちり打合せの時間、頂きますよ」 「えぇ、やだ、あたし今から寝るつもりだもん」 「十時間寝てまだ眠いんです? 嘘でしょ」 「あと二時間プラスで一番ベストな睡眠時間なんだよぉ」 言いながら彼女は眠そうにマグカップに口を付けたが、すぐに眉を顰めて手を離した。何事かと思えば、真柴に渡すカップを取り違えたという。そういえば光香は砂糖がないと飲めないタイプの人間だった。間髪入れずに慌ててこちらへ差し出されるマグカップに苦笑する。 「いい加減ブラックでも飲めるようになりましょうよ」 「苦味の暴力ぅ」 差し出されたカップを手に取り自分が持っていたものを返した。そうしてやっと光香は安心したように一口嚥下してにっこりと笑う。 一緒に作品を作り始めてこれで六作目になる。初めて顔を合わせた時に残っていた肌寒さは和らぎ、もうすぐ春がやってくる。つまりそれは彼女が大学二年生へ進級するということでもあった。決して本人には言わないけれどほんの少しおおかみくんと重ね合わせて笑ってしまった。森から出ようとおっかなびっくり足を踏み出すおおかみくん。きっと彼女も同じように新しい学年へ足を踏み入れるのだろう。叶うことならば彼も彼女も、踏み出した先の世界が、柔らかく暖かい春の陽気に包まれていますように。光香が飲みかけて断念したコーヒーに口をつけて真柴はそんなことを思うのだった。 //枝先に春(真柴と光香のはなし)
2018-02-28 |