真田真柴は困っていた。

冬の近付く外気は冷たく、息が白くなるほどではないものの薄手のコートの上から鋭い冷気が忍び寄ってくる。そのうえ待ち人はいつ現れるかわからず、ただひとえに待ちぼうけしているこの状況に飽きていた。正直、今回の待ちぼうけが他の人物の為だとしたら、とっくの昔に帰社しているだろうと思う。飽きていたし困っていたし寒さに震えていたが、気持ちはぽかぽかと高揚していることも、また事実だった。何せ、今真柴を待たせているのは他でもない、真柴が編集者の道を選んだ切欠となった人物だ。

景綴。繊細な文字運びが特徴的な純文学作家だ。デビュー自体は十数年前だが、コンスタントに作品を生み出し続けている。所属する出版社に入った時から、いつか彼を担当するのが夢だった。まさか二年目にしてその栄光を得ることになるとは思いもしなかったが、真柴にとってそれは酷く嬉しい誤算だった。

悴む指の先を両手で擦り合わせて、真柴は彼の玄関先にて空を見上げる。ほんのりと薄暗くなっていく外にいつから待っているんだっけかな? なんて、何処か間の抜けたことを考えた。初回の打ち合わせ時間については重々伝えてあったものの、本人はチャイムに応じない。前の担当である上司に問い合わせたが、その返事はあっけからんとしたものだった。

「大方筆が乗って、チャイムが聞こえてないんだろうよ。生きてたらそのうち出てくるよ」

――思わず「生きていたら?」と聞き返してしまった。随分と生活リズムが狂った作家だとは聞いていたが、そこまで酷いのだろうか。他人事だと思ってちゃんとしたアドバイスをくれない前任に大きくため息を吐く。

最早ここまで来たら会わないことには骨折り損の、なんとやらだ。そんなことを思いながら、真柴はまたしても服の上から入り込んできた冷気に身を震わせる。

その時、がらり、少し古いドアの開閉音が耳に届いた。敏感に察知した耳と、反射的に動いてしまう首。心臓が『ぎゅん』だか『ぎょん』だか、変な音を立てて高鳴ったのがわかった。

「……誰」

玄関から出てきた相手は、口に銜えた煙草に火を付けながら、とても器用に真柴の存在を認識した。目の下は深い隈、やつれた表情に覇気はなく、これがあの繊細な文章を書く景綴なのだろうか。鋭い視線を向けてくる男性からは、想像の中の作者と全く一致する要素が見つからなかった。肩まで長く伸びた金髪は手入れをしているようには全く見えず、それどころか根本に地毛の色が出てしまっている。若干怖い。纏っている雰囲気が明らかに一般の人のそれとは違う。問いかけに慌てて真柴は立ち上がる。ずっと座り込んでいたせいで少し頭がくらりとした。

「初めまして、前担当から引き継ぎをさせていただきます、真田真柴です」

憧れの人が目の前にいるという緊張で、若干声が裏返っているのが自分でもわかった。頭を下げてみせると、彼はあぁと酷くやる気のない相槌を打ち、そういえば打ち合わせだったっけ。なんて、彼も彼で惚けたことを言う。メールと電話の二段構えで連絡していた筈だが、完璧に忘れ去られていたらしい。

「……年は?」

切れ長の瞳が、目元の隈も相まって鋭く真柴を刺した。そのまま上から下まで降りてくる視線に、何処か獲物を吟味する野生動物のような気迫を感じながら、真柴はこれまた必死に「二十四歳です」と答える。

「新人?」
「いえ、二年目です」
「ふぅん、そう。若いね」

彼――景綴は、銜えた煙草からうっそりと煙を吐き出して、それから空いた方の手で玄関を指差した。入れ、ということだろうか。彼のすべてが予想外で戸惑いが隠せず様子を伺っていると、後ろに回ったままの手が、もう一度玄関を指差した。二度目の催促に、真柴はぺこりと頭を下げて玄関へと足を踏み入れる。ふわり、踏み込んだ室内からは紙と万年筆のインクの香りがした。

真柴が玄関に入り切ったのを確認して、景綴はもう一度真柴を一瞥。それからぴしゃりと玄関の扉を閉めてしまった。うっすらと硝子戸に映る後ろ姿の影を見るに、何か電話をかけようとしている。

思った以上に難しい人かもしれないぞ、なんて、真柴はなんとなく察したが、とりあえず靴を脱いでその場に待機することにした。



***



文違文俊は呆れていた。

いつから待っていたのか知らないが、この低くなった気温の中で待機していた新人――文俊にしたら二年目なんてまだ新人の部類だ――にも、そんな阿呆な新人をわざわざ自分の担当に宛がった前任にも。出前でも取ろうと持ちだしていた携帯から、前任の電話番号をコールすると意外にも三コール目が鳴り終わる前に聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「景綴先生? 新しい奴と会えました?」
「会ったよ。けど、何考えてるの。よりによって新人を俺につけるなんて。また辞めたって責任とれないよ」

指先に留めていた煙草に口をつけ、煙を吸い込む。久しぶりに摂取するニコチンが体を巡る感覚がやけに懐かしかった。徹夜は慣れているが、三日目となると流石にガタが来る。四日目にはいつも意識がなくなっているから、そろそろやめなければならないのだろうが、文俊の筆は一度乗ったら最後、止まるのが難しい。

文俊の抗議を聞いた前任は、瞬間弾けるように明るく笑った。それはないな! なんて、すぐに即答された根拠のない否定に少しイラつく。何なんだその自信は。

「どういうこと。なんでわかるの」
「はっはは、いや、あいつ根性あるし色々訳アリだから。舐めてかかると先生のほうが根負けちゃうかもね」
「いや、だから、どうしてそう思うんだって」
「あっ、ほら俺今病院だから〜、打ち合わせしっかりしてくださいね」

ちょっと待って、という文俊の言葉が終わる前に、前任は明朗な声でそう告げて一方的に電話を切ってしまった。全く、本当に、一体、なんだというのか。苛立ちを煙草で誤魔化し、用済みとなった携帯電話をポケットに滑り込ませる。前任が言うほどに、あの新人が文俊の思っている以上のポテンシャルを持つというのだろうか。文俊に返事を返す姿はまるで子犬みたいに頼りなさそうだというのに? 全く信用がならない。

不満と苛立ちだらけだったが、打ち合わせはしなければならないだろう。いつまでも居座られると困るし、また外で待機されているのもなんだか気味が悪い。そう考えを巡らせて玄関を開ける。そこには壁にかかった額縁を食い入るように見ている若者がいた。目をキラキラ輝かせて見上げている額縁の中身は、景綴――文俊のペンネームだ――が、初めてデビューした時の初版本のカバーだった。前任がこういうのは記念品だから! と文俊の許可もなく飾った記憶が新しい。ただ、初版本ではないにしろ、その本自体は何処の本屋にも置いてある普通の本だ。文俊が玄関に入ってきたことも気付かないほど集中してみる価値はないと思うのだが。

「打ち合わせ」

いまだに乗り気にはならない気持ちのまま声をかけると、若者は面白いくらいに肩を跳ねさせてこちらを見つめた。くりくりとした大きな瞳は、まるで未来への大きな期待を抱えているとでもいうように輝いていて、なんだか非常に居心地が悪い。

「するんでしょ」
「あっ! ハイ、お願いします!」

玄関に靴を脱ぎ捨てて、先に書斎へと歩を進める。あとについてくる足音を耳で聞きながら、今日長くなりそうだなぁとぼんやり考えた。こちとら三日の徹夜の後だ。直ちに睡眠を貪りたいところなのだが。




//それはまるで肌に合わない(真柴と文俊のはなし)







2017-12-25