作中での表現で思うところがあって名前を呼んだ。けれど呼びかけに対する返事は返ってこない。それでも別に、無視されているわけではないということも真柴は知っていた。集中している作家というのは一様に、作業に夢中になるあまりに周囲への意識が散漫になるものだ。机に向かっている景綴の隣へと向かって、先ほどまで持っていた原稿を目の前に滑らせる。先生。二度目の呼びかけに今度こそ彼は反応を示し、少し気怠そうにこちらへ目線を寄越した。膝立ちになり、原稿の一部分を指で示す。 「ここの部分、どちらかというと後に回したほうが、締まりませんか?」 「んー?」 真柴が示した場所を目で追いかける景綴。さらりと細やかな金糸の間から覗く、深い青色の瞳が酷く綺麗だ。 「そうだね、変えようかな」 示した場所を読み終わった景綴は満足そうに頷いて、シバ君はこういうことによく気付く子だね、と静かに笑って真柴を褒めた。なんだか気恥ずかしくて言葉を濁す。直球に褒められるのは少し苦手だ。原稿を再び手に取って元の場所に戻ろうとした。ふと、その時、耳元にするりと穏やかな熱が滑り込んでくる。驚いて視線を景綴の方へと戻してみれば、先ほどまで下を向いていた青色の瞳が静かにこちらを注視し、その手は真柴の耳元に当てられていた。え、なんだなんだ。なんて、心がざわつく。 「……せんせ?」 「真面目なシバ君にも、やんちゃな時期があったの?」 その言葉と、親指で耳たぶを撫ぜられる感覚に、はたりと気付く。普段は全く意識していないけれど、真柴の左耳にはひとつ、何も通していない小さな穴が空いているのだ。 「あぁ……いや、昔彼女にごねられて」 「え。シバ君彼女いるの」 「大学卒業前に別れましたけどね」 「へぇー。まぁ、じゃないとこんな仕事漬けの生活できないよね」 「ごもっともです……」 地味に心に突き刺さる景綴の言葉を粛々と受け止めて苦い声を上げると、刃を振りかざして方は愉快そうに笑った。座椅子に綺麗に座りなおして机に頬杖をついたまま、こちらへにっこりと笑みを浮かべる。 「ね、何処が好きだったの」 とっても嬉しそうな顔だ。こういうときの景綴は十中八九、小説のネタになると思って言葉を発している。ネタになるほどの特殊な恋ではなかったけどなぁ、なんて一人ごちながら、それでも彼の糧になるのであれば、なんて思ってしまう真柴は素直に答えてしまいたくなるのだ。 「明るくてよく笑う子だったから、一緒にいて楽しかったんですよ。同い年で感覚も近かったですし」 「ふぅん……、じゃあ、如何して別れたの?」 ずばりとまたしても刃。いや、かなり古い話だからそこそこ傷も癒えているのだけれど。なんというか、景綴は時折全くの遠慮がない。今度は少し言葉を発するのに時間がかかった。なぜ別れたかと聞かれたら、理由が少し、言いづらいのだ。 「あー……、ほら、女性って、長く付き合っていると先を求めるものらしいじゃないですか。彼女もそんな感じで、でも俺はその時夢中になっていたものがあって、それどころじゃないっていうか。それで振られました」 「ふぅん。あぁ、じゃあその夢中なものがなかったら結婚していたんだ?」 「もしかしたら、そうかもですねー」 やはり愉快そうな景綴は、ありがと。なんて軽く礼を言い、掛けたままにしていた眼鏡を掛けなおす。最後にするりともう一度耳元に指先が滑り込んできて「じゃあこれは、彼女の痕跡ってことか」なんて詩的な表現をする。あぁ、もう、この人の表現が好きだ。普段はちっとも大好きな景綴だという実感はないけれど彼の言葉は時折鮮烈に真柴の心を射抜く。――濁した言葉には何も突っ込まれなかったことに、内心だけでほっと安堵した。当時の真柴は他でもない、目の前の作家の作品に夢中だった。それこそ寝食を忘れるほどに、彼女に呆れられてしまうほどに。ゆっくり離れていった熱に、何故だか無性に寂しくなったことが、不思議でならなかった。 //滑らかな温度(真柴と文俊のはなし)
2017-12-25 |