知らないことは、体験すべき。そうして体験を小説に昇華することは、とても大事なことだと真柴は思っていた。思ってはいたが、まさかの事態に正直戸惑ってもいた。向かい側の席では文俊が普段よりも上機嫌で店のメニューを捲り、男性二人で使うにはやや狭いテーブルの上にフォークとナイフ。辺りには甘い匂いと女性特有の高いの声で満ちていた。真柴がいる空間は、最近出来たばかりだというパンケーキ専門店だ。 店の中にいる男性は真柴と文俊の二人だけだというのに、文俊はなんにも問題ないという素知らぬ顔で二人分の注文を済ませてしまった。綺麗に染めた茶髪を揺らした女性店員は、文俊と真柴を交互に見てからにっこりと笑う。非常に、居心地が、悪い。 *** 事の発端は真柴の休日に飛び込んできた『シバちゃん、お昼食べようよ』という文俊の誘いだった。彼からこういったことを誘ってくるのは珍しい。不思議には思ったが高揚する気分で示された場所に向かった真柴は、到着した場所の看板を見てその真意に気付いた。蓋を開けてみれば甘いデートの誘いなどではなるでなく、単なる作品の為の取材だったのだ。 「先生、女性ばかりでほんと居辛いんですけど」 「はは、いいね、そういう反応が欲しかったんだよ」 「えっ、作中人物にこんな苦行を強いるつもりなんです?」 周りを気にして声量を落とし囁く真柴に、あっけからんと笑ってみせるのだから敵わない。これはきっと新手の試練だと、そう思い込むこととした。さして間を開けずに先程注文したパンケーキが二人分運ばれてくる。店員がやたらと『ごゆっくり』を強調した気がするのは、真柴の気のせいだろうか。 「シバちゃんすごい、生クリームの山って感じだね」 「先生甘いものお好きでしたっけ」 「そこそこかな?」 言いながら文俊は、酷く綺麗な動作でフォークとナイフを手にした。すらりとした長い指が、金属食器の淵を撫ぜていくのを、ついつい目で追ってしまう自分に気付く。彼は普段からこういった所作がやたらと綺麗だ。育ちの良さか、様になる雰囲気か、――いや、多分その両方だ。一切の音を立てずに一口分を口に運ぶ。ゆっくり開いた口から赤い舌が覗く様に、心臓がドクリと跳ねた。好きな人の食事風景、というのは、正直様々な理由からじっくりと見ていられない。無粋な気持ちを誤魔化すために、真柴も食器を手に、目の前のパンケーキを口にした。口にしたはいいものの、予想以上の甘さに思わず眉根に皺が寄る。 「シバちゃん、顔怖いよ」 「あ、すみません……。甘いですね、すごく」 「そういえば君は甘いものが得意じゃなかったっけ」 「まぁ、特別好きでも嫌いでもないって感じです」 それでも出された食事はすべて食べる。が真柴のポリシーだ。子供の頃に植えられた理論は根深い。一口一口食べ進める隙間に、どうしてもパンケーキのシーンを入れたいのだとか、このあとの予定だとか、庭に新しい猫が来たのだとか、そんな他愛もない話をした。時折くすりと優しい笑みを零す文俊に何度も何度も見惚れてしまっていることが、彼にバレていないといいのだが。 ようやっと真柴が目の前のパンケーキを平らげ終えた時、文俊の皿にはまだ半分以上が残っていた。元々文俊は食が細い。明らかに飽きました、という顔で食器を握っている姿に思わず大丈夫ですか? と声をかけると、相手は一度こちらを見て、それからやっぱり綺麗な動作で一口分のパンケーキ、――しかも生クリームが山盛り、をフォークに刺して、そっと真柴の方へと差し向けた。 「シバちゃん」 目の前には文俊とパンケーキ。促すように名前を呼ばれ、真柴は少したじろいだ。つまり暗に食べろと言っているのだ。 「もー、先生が頼んだやつじゃないですか」 「思った以上に生クリームが重くて。……ダメ?」 困ったように眉を落として聞かれてしまったら、もう真柴に拒否する気持ちなど起きようもない。差し出されたフォークを迎え入れるべく口を開けると、くすりと笑い声と共に甘い味がした。生クリームの量に圧倒されて、それ以外の味がまるでしない。まぁ、そもそも真柴にとっては甘い、という感想以外のなにものも抱けない食べ物ではあったのだけれど。真柴が飲み込んだことを確認した文俊は次の一口分を切り分けようとしていた、が、こちらを見てその動きをピタリと止める。片眉を上げて少し呆れたような笑顔を浮かべる彼は、空いた手の人差し指をちょいちょい、と折り曲げて、『おいで』の合図をした。その合図の真意が分からないまま、それでも真柴は素直にテーブルに肘をつき、なんですかと身を乗り出す。 「君ってば、本当に隙だらけだね」 まるで愛しくてたまらないというような優しい声と共に、先程まで見惚れていた文俊の綺麗な手が伸びてくる。少し体温の低いそれは、真柴の髪の毛を避けてするりと頬に触れた。いきなりの接触に間の抜けた声を出してしまった。――あれ、なんだこれ。事態を飲み込めていない中、文俊の親指が口元に添えられる。髪が揺れる音と共に離れていく熱に、白い生クリームが攫われて行くのが見えて、そこでやっと口端に生クリームを付けていたことに気付く。気恥しい気持ちを抱えながらも礼を言おうとしたが、それよりも先に言葉を失った。 流れるような動作で、さも当然とばかりに文俊は指を自身の口元に持っていき、その赤い舌でぺろりと舐めとったのだ。 「で……っ!?」 思わず体が熱くなるわ、変な声が出るわで大変だ。予想以上に大声を出していたらしく、周りの女性客の目がこちらに集中するのを感じながら、真柴の頭は真っ白になってしまった。 「あ、や、さん、さっき生クリーム食べれんって言っとったやん……?!」 「あれ? そうだったっけ」 素知らぬ顔でにっこり笑顔。こういう顔をしているときの文俊には、どんな抗議ですら、躱されてしまう気がする。続いて差し出されたパンケーキに、もう目を合わせることが出来ないままに口を開けるしかなかった。見ないようにしたところで、文俊の愉快そうな笑顔の音がする。先生の馬鹿、そんなふうに煽るなんて、後で知らないからな。 *** 後日出来上がった新しい原稿をうきうき気分で読んでいたら、何処かに違和感を感じて、ついつい三回読み返してしまった。――まぁ、何もなくても読み返していただろうとも思うけれど。そうして三回目でやっと違和感の正体に気付く。今回しきりに書くのだと言っていたパンケーキの描写が何処にもないのだ。 「先生、パンケーキの話、抜けてますよ」 「んー、ちょっと気に入らなくて飛ばしちゃった」 何事かを思案しながら原稿用紙に向かっている文俊の後ろ姿に疑問を投げかけるも、彼はこちらを見ないままにそんなことを宣った。あんなに苦労して食べたのになぁ、なんて少し残念に思いながらも手元の原稿に目を戻す。けれどもその視線が原稿に辿り着く前に、ふと文俊の耳元が赤く染まっていることに気付いてしまった。あれ。と思った瞬間に、今までの彼の言動を思い返して思わずにやけそうになる口元を手で押さえる。もしかして、まさか。なんて。そんな淡い期待と、ほぼ間違いない確信。 「せんせ」 「うん?」 「……もしかして、取材じゃなくて、俺と行ってみたかった、とか?」 次に投げかけた言葉には、今度は先ほどよりも大仰な反応が返ってきた。ぴくりと肩を跳ねさせて、それでも決してこちらを振り返りはしない。見つけた赤色がじわじわと深くなる。 「……何のことだか」 やっとのこと彼が口にした言葉は、いつものような飄々とした空気を纏ってはいなかった。あぁ、もう、なんだ、この人? 途端に愛しい気持ちが沸き上がるのを抑えられずに、真柴はただただ緩む顔のまま、そっと彼の肩に手を添えてこちらへと引き寄せた。今となっては真っ赤な耳に口付ける。 「あやさん、大好きやよ」 耳元でそう告げた言葉は、彼にはどんな風に聞こえただろうか。願うことなら、この気持ちのほんの少しでも、いや、うそだ。全部全部丸ごと伝わってくれたらいいのに。 //愛しい甘さ(真柴と文俊のはなし)
2017-12-25 |