「仕事に行く準備はいいから、旅行の準備してよ」

そんな全く理解の出来ない言葉を聞いたのは、平日真っ直中の水曜日、夜十一時を回ったころだ。明日の仕事予定を確認しながら鞄に必要な物をしまっていた真柴へ、至極当然じゃないかとばかりに言い放った文俊は、大好きな入浴を満喫出来て上機嫌の様子だ。また突然変なことを言い始めたぞ、なんて、思わず半眼になって視線を投げると、彼は愉快そうに笑い「眉間に皺が寄ってるよ、シバちゃん」と濡れた髪のまま炬燵に足を滑らせる。

「あやさんが変なこと言うからですよ。何ですか、旅行って」
「そのままの意味だよ」
「そんな予定ありました?」

何故この人は髪の毛を自分で乾かすという小さな子供ですら出来ることをやろうとしないのか。ため息混じりに途中の作業から手を放して、彼が首にひっかけたままのタオルを取り、その金糸から水滴を拭い始めた。特に何の抵抗もなくその動作を文俊が受け入れるのは、もはや毎日の恒例行事に他ならないからだ。本当に真柴は、彼に対して甘い。されるがままの文俊は自分が座っているところとは直線上の反対に置いてある自分の財布を指し示し、数度人差し指を折り曲げて見せた。抗議の為わざとため息をつきながら、その恐ろしく値が張るだろう財布を手に取って手渡すと、礼を言った彼はその中から二枚のチケットを取り出す。

「予定は俺が、今日立てたんだ」

薄い青色のチケットには、いくつかの情報が並んでいる。行き先は熱海。どちらも大人のグリーン車、日付は――

「明日?」
「そう、明日」
「え? 仕事ですけど」
「もう穣さんにお休み貰ったよ」
「え!?」

驚きの連続に思わずタオルを持つ手が止まる。真柴の動揺がおかしくてたまらない文俊だけが酷く楽しそうに、くつくつと笑みの音を零した。確かに文俊は真柴の上司との縁が深く、勝手に休みを取るなんてこと朝飯前だろうが、まさかそんなことを秘密裏にやっているとは夢にも思わない。

「ね、シバちゃん。旅行しよ?」

言葉を失う真柴の方へと首を傾け、彼は頭に被せられたタオルの隙間から、悪戯っぽく無邪気な子供のように笑った。


***


結局文俊の希望通りに、深夜までかかって荷造りをした。二泊三日の短い旅とはいえ、人が他の場所で快適に寝起きする為には思ったよりたくさんの物が必要で、さらにいうと旅行をしようと言ってきた本人のものまで準備をする羽目になったから終わった時には日付が変わるぎりぎりのところだった。若干の寝不足から来る眠気を持て余して欠伸をかみ殺していると、隣の文俊が楽しそうに笑みを零す。

「あやさん、やたらと楽しそうですね」
「そりゃあ。シバちゃんと一緒に旅行だなんて初めてじゃない?」

二人分のキャリーケースの車輪がコンクリートの凹凸にぶつかって渋い二重奏を立てる。そう言われてみれば、旅行と名付けられる旅はこれが初めてか。去年の冬、真柴の実家への旅は道中楽しむだなんて言葉が出てこないくらい二人とも緊張していたし、どちらかというと処刑への道のりと呼ぶほうがしっくりくるほどだった。

「そういえば、温泉には行きたいってずっと言ってましたしね」
「うん。露天風呂があるんだよ。楽しみだ」

言葉の通り、文俊の足取りはいつもより軽い。普段なら徒歩五分の距離でもタクシーに乗りたがるのに、今日ばかりは運動不足解消の提案を受け入れてくれるほどなのだから相当のことなのだろう。まだ冷たい風が彼の上等なマフラーの端をなびかせる。

「でも、普通に誘ってくれたらお休みくらい取ったのに」

思った以上に強引だった旅の始まりを思い出して、思わず真柴まで笑ってしまった。すると文俊の方も笑みを深くして、こちらの方へと半身を向ける。さらさらと冬の風に流れていく金色が酷く綺麗で、思わず目を奪われた。

「最近根詰めてばかりだったでしょ。シバちゃんのお休みを待ってちゃ心が参る方が先だよ」

こういう時に文俊がする、無邪気な笑顔は心臓に悪い。重要器官がドキリと跳ねて、思わず名前を呼ぶと、呼ばれた彼は少し自慢げに「ふふ、褒めても良いよ」と真柴の顔を覗き込んでくる。あぁ、本当に、飄々とした言動の裏でこの人は真柴のことをよく見ている。――けれども真柴が疲れていたことと、自分のことを自分でする、というのは全く別の話であるようだ。

「……そう思うなら自分のキャリーくらい引いてください」

ごろごろ、真柴の両手を塞いでいるキャリーケースの車輪が、尚も渋い音を立てている。危ない、甘い言葉に騙されそうになった。照れ隠しを交えた指摘に、道中一度たりとも自分の荷物を手にしていない綺麗な指が、誤魔化すみたく前方を指し示す。

「あ、真柴、もうつくよ」
「もー、あやさん……」

相変わらずの恋人の自由奔放さに、ため息を吐く。それでもそこに含まれるのは呆れだけではないから性質が悪い。無邪気に、綺麗に、真柴を振り回す彼には多分ずっと敵わないのだろうな。なんて、前方に見えてきた豪邸を眺めながら思った。

――豪邸?

「え? これ旅館ですか?」
「ううん、別荘」
「別荘!?」




//誰よりも困らせて(真柴と文俊のはなし)







2018-05-16