十月が近付くと、文房具屋の一角が途端に賑わう。所謂スケジュール帳、手帳、そういった類のものが出回り始めるのだ。一月始まりと、四月始まり、大まかに分けて二つの種類があるけれど、ことさら真柴は一月始まりを好んだ。仕事用として使うには、新しい年度である四月始まりの方が利便性は良いのだが、一月始まりであれば新しい年だと気分が一新できるような気がしていた。そんなわけで、真柴も例に漏れず手帳コーナーを物色していた。けれども種類やテイストが豊富にある手帳の中から、気に入る一つを見つけだすことは大変だった。一度の訪問ではいまいちしっくりくる物が見つけられず、その日はなにを持ち帰る訳でもなく、いつもの帰路へついた。

繋街の中でも田舎とされる街外れ。少し年期の入った、まさに日本家屋といった言葉がよく似合うその家には、すでに暖かい明かりが灯っている。慣れた手つきでポケットに収まっていた鍵を取り出し、引き戸を開けると、玄関のすぐ先では、ちょうど小さな子猫が横切ろうとしていたところだった。動物のことが苦手な真柴が一瞬身を強張らせるも、彼はこちらの姿を認識するなり脱兎のごとくリビングまで駆けていく。ちょっとは愛想よくしてくれてもいいのではないだろうか。なんて、少し半眼になる。

恋人がどうしてもとねだって飼うことになった猫は、元来動物嫌いの真柴よりも恋人に懐いた。彼の後を追うようにして廊下を歩き、居間へと向かう。そうして引き手に手をかけようとしたとき、真柴よりも先に、障子が穏やかに開いた。

「おかえり」

迎えてくれた声もまた穏やかで、声の主はこちらへにっこりと笑みを浮かべて緩く首を傾げた。その腕の中には真柴には毛ほどの愛想も振りまかない猫が上機嫌に収まっている。首の動きと一緒にさらりと流れる髪の毛はまだ濡れておらず、もしかして真柴の帰宅を待っていたのだろうか、と少し申し訳なくなった。

「ただいま、あやさん」

少しそばに寄ろうと思ったが、彼の手元には天敵とも言える猫がいる。泣く泣く断念した真柴は、仕方ないとばかりに文俊とは反対側の机について、大きく背伸びをした。

「今日は早かったね」
「あぁ、手帳を見ようと思って、早めに仕事終わらせたんです」
「ふぅん、良い手帳はあった?」
「いえ、駄目ですね。また週末に別の文具屋に行ってみます」
「そっか」

言いながら文俊は猫の顎もとにするりとその長い指を滑らせた。気持ちよさそうにした猫がなんだか羨ましくなる。程良く疲弊した体から抜け出す疲労に、ぼんやりとその様子を眺めていると、ふと深い色の瞳が真柴を射抜いた。

「へ」
「そうだ、思い出した」

それだけを言った文俊は、おもむろに立ち上がり居間から出て行った。残された猫がその後を追いかけ、更に不思議に思った真柴も後に続く。

文俊の行き先は自室だった。最近真柴がぶつくさと文句を言いながら片付けたばかりで、比較的整った部屋の隅、本棚の前に立った文俊は何かを探しているようだった。うろうろと視線をさ迷わせて、そうして、一点に目を留める。振り返った彼は、少し悪戯っ子みたいな表情をしていて、思わずドキリと心臓が跳ねた。彼がこういう顔をするときは、本当に悪戯を仕掛けてくるか、それとも真柴を驚かせようとしているかのどちらかだとはわかっているのに。視界の遙か下にいる、小さな白黒の頭も同じように首を傾げていた。

「はい、シバちゃんあげるよ」
「へ? なんですか」

差し出された手のひら大の箱は重厚感のある黒色をしていて、表には金色の箔押しが施されていた。いかにも高級です! と言わんばかりの品に、真柴は酷く緊張しながら受け取る。開けても良いですか、と問いかけると、相手はやっぱり悪戯っ子の顔で頷いた。

「手帳?」

開けた小箱の中には、黒い革で作られたシステム手帳が収まっていた。予想外のものの登場に再び首を傾げると、昔に使おうと買ったものだが使わないままだったからと、彼は足下に寄りついた猫を抱え上げて笑った。手で触れると、いかにも高級な革の質感と香りが鮮やかに香る。明らかに高い。まあ、文俊が私物として買うものに安物が混ざっていることなど、今までなかったから当たり前だろうか。シンプルなそれは真柴の好みにぴったりだったが、用意に想像できる高級さに、そのまま素直に貰って良いものか迷って言葉に詰まる。彼はそんな真柴の心を察してか、貰ってよ。と愉快そうに笑った。

「シバちゃんがお風呂に入ってる間に、中身も探しとくからさ」

言いながら真柴の肩をぽん、と軽く叩く。いつも文俊には貰ってばかりだなぁと思いながらも、その好意に甘えることとした。



***



入浴を済ませ、濡れた髪をがしがしとタオルで荒っぽくかき混ぜながら戻った居間では、子猫と戯れていた文俊が机の上を指差した。

「入れといたから、見ておいてね」

ふふ、と軽く笑ったあと、腰を上げて風呂場に向かっていく文俊を、彼にべったりの子猫が追いかけていく。居間に残されたのは真柴と蛍光灯の光に照らされて優しい反射光を放つ手帳だけになった。今まで安物の手帳しか使ったことのない手で、慎重にそのバックルを開いた。シンプルな罫線の入ったスケジュール帳。空白のマス目に自分で文字を書き込むものらしいと気付いた数秒後、予想外の文字が目に入る。

一つページをめくった月は既に日付が書き込まれた十月だった。その、二つめ。十月二日のマス目の右上に、そっと小さく『ありがとう』と記されていた。文字を読んだ瞬間に、その日が何の日なのか鮮やかに思い出す。寒い玄関先で待ちぼうけの日、長い間の恋慕が届いた日。ああ、もう、こんなにやけ顔。戻ってきた文俊と会うのがとても恥ずかしいじゃないか。あの人は、いったいどんな顔をして戻ってくるのだろうか。脱力と共に机の上にうつ伏せて、そっと五文字を指でなぞった。





//五文字のしあわせ(真柴と文俊のはなし)







2018-11-04