傘の柄を、思わず放してしまった。支えを失った傘は、あたしの体にぶつかりながら薄く水の張った地面に落下する。すぐに体に降り注いできたのは、まるでちくちくと突き刺さる小さな針のような、酷く痛い雨だった。 もやもやした気持ちを抱えたまま、油断したら声が零れてしまいそうな喉を押さえて、出来る限り早く足を進めた。もう少し早く歩いていれば良かった。あと五分早く、あと五分遅く、家を出ていればよかった。なんで今日に限って都内まで出てきたのだろう。あぁ、雨が綺麗だったからだ。しとしと降り注ぐ雨がとても綺麗で、その雰囲気に彼を思い出したからだ。 それなのに目の前に現れた現実は、ほんの少しの陶酔から目を覚ます為には十分な威力を持っていた。一つ傘の下の、彼と、しらないおんなのひと。見間違いかと何度か瞬きをしたのだけれど、現実は確かにそこに鎮座していた。彼は大人の男の人で、恋人がいたって別におかしなことではない。優しくて理知的な彼のことだ、むしろなぜいないと思いこんでいたのだろう。 玄関の扉を閉めると自然と力が抜けてきて、体を預けたまましゃがみ込んだ。あぁ、もう、消えてしまいたい。長く伸ばした髪の毛から落ちてくる滴は、とてもとても冷たくて、なんだか無性に暖かい彼の笑顔に会いたくなった。 「……あーあ、また、キヨちゃんだぁ」 何処までもあたしは彼の存在を消しきれないらしい。脳裏に焼き付いてしまった表情は、こちらに向けた笑顔ではないのにな。 *** 赤色の傘の隅から覗いた髪の毛は、柔らかそうな亜麻色の二つおさげだった。 傘を忘れたクライアントを駅まで迎えに行く帰りに見かけたその色は、清正にある一人を思い出させた。すぐに通り雨の日は嫌いだと、不満げに呟いた彼女の表情が浮かんで、思わず笑ってしまった。普段は大人っぽい表情をしているのに、そういう時に浮かべる表情はまるで幼子のようだと思ったことが記憶に新しい。 思い出せば、最近は時間が合わなくて真柴や光香とも遊べていなかった。仕事が終わったら連絡をしてみようか。窓の外を眺めてむっすりとした顔をしていないといいけれど。やたらと傘がなかったことを主張してくるクライアントに笑顔を返しながら、清正は事務所の扉を開いた。 //雨の日の齟齬(清正と光香のはなし)
2018-11-04 |