六つ年上の兄が消えた。

何か大きな事件があったわけでもないとそう思う。いつものようにお手伝いさんが作ってくれる朝食をそれぞれに食べて、それから目的の場所へと向かっていった。つまり、俺は学校、父は寺、そして兄も父と同じく寺へ。

建花寺と名前がついたその寺は、俺たち家族の苗字になるほど一族への影響力が強い。江戸時代から連綿と続いてきた歴史に伴い、門徒の数も一般の寺よりもはるかに多いのだと聞いた。二人の兄弟の中で、兄は長男、俺は次男。何だって一族のルールに従う父は、当然跡継ぎに兄を選んだ。兄は寺の勉強、仏教の勉強を重ね、そうしてついに大学を卒業後、寺の仕事を手伝うようになった。そんなこんなで、俺はそうそうにお役御免。好きなことをしながら、あまり刺激的とは言えない高校生活を繰り返していた。

そんな矢先、兄が消えた。俺よりもずっとずっと社交的で模範的、優しい兄だった。友人も多く、毎日溌剌としていたから急に消えるだなんて誰も予想していなかった。家にあった兄のものは、本当に必要なものだけは無くなっていた。つまり事件ではなく失踪だ。当然父は激怒して、警察やら探偵やら、とにかく自分が持っているコネクションの全てを駆使して兄を捜索したが、数ヶ月経っても彼の足取りは掴めなかった。よほど上手く身を隠したのか、それとも追っ手を言い包めたのかは分からない。長年門徒でいてくれている、ある家の兄貴分に聞いてみると、彼は言葉を濁して「香獅も華虎も、難儀だな」とそれだけを言った。

そう。難儀なのだ。兄が消えたということは、次は俺の番。父はしばらくの間兄を捜索し続けたが次第にその勢いは消退し、ある日俺に向かってこう言った。

「華虎、お前が継げ」

咄嗟に俺は、とりあえず「嫌だ」と――

「言えなかったんだ?」

苦虫を噛み潰したようとはこの事だ。小さく頷く。反動で伏せていた机に額を打った。

呆れたような声でそう指摘をするのは、高校入試の時から腐れ縁である森本翔馬。消しゴムを貸す、だなんてベタにベタを塗り重ねたような出会いをして以来、なんだかんだと世話を焼いてくれている。翔馬は明るく、コミュニケーションが大好きで顔が広い。華虎とはまさに真逆の性格の彼は、華虎が出来ないことを簡単に言い放てる鋼の心を持っていた。

「いやいや、華、嫌だって言うのはマジ今のうちだって。期待させてっと、今よりもっと断りにくくなるぞ」
「言おうと思った、そしたら、家系図見せられた」
「は? 家系図?」
「江戸初期から今までの。それで『先祖様たちの作った寺を潰せんだろ』だと」
「ワァー、それ、いわゆる毒親ってヤツじゃないん?」
「……そこまでではない。と思う」

一般的に見たらやや強引だし家に執着しすぎだろうが、家が大事だという気持ち、たくさんの門徒さん、それらを引っ括めて考えると父の主張も分かるのだ。分かるけれども継ぎたくない理由が、華虎にはあった。

「この間、編集部から連絡がきて、担当さん付けてくれることになった」
「えっ、すっげーじゃん。おめでとう」
「うん」
「あー。けど、すっげータイミング悪いな」
「……うん」

華虎は、小さな頃から本が好きだった。本の世界に引き込まれる感覚が最も好きで、そしてその感覚は自分が書く側に回ればもっと強くなることに気付いて以来、ずっと小説を書いてきた。そうしてほんの少し認められたのがつい最近、そして兄の失踪。これまで波のない凪いだ人生を送ってきた華虎のキャパシティは最早いっぱいいっぱいだった。翔馬がため息をついたことが、見なくてもわかる。

「華、とりあえず今日帰りになんか食って帰ろーよ」
「は? 部活は?」
「今日は休む。俺、商店街のコロッケ食いたいな」
「あぁ……、あれ、美味いよな」
「だっしょ?」

むくりと体を起こしてみれば、教室に差し込む陽の光が橙色に染まっていた。随分長い間こうしていたようだ。申し訳なく思って翔馬へと視線を向けると、彼は全く気にしていない、それどころかすこし機嫌が良さそうにしている。小さく謝罪の言葉を口にすると、さらに弾けるように破顔して「コロッケ三個でチャラにしてやるよ」と言った。突然の展開にパニック以外の何ものでもなかったから、実際彼の存在はとても助かった。少しだけ整理がついた心は、確かに寺よりも小説を選んでいる。帰ったら父に言おう、なりたい職業があるのだと。

――「おぉ華虎、おかえり」「だだいま、……あのさ」「大学の資料貰ってきたぞ」「……は?」

しかし物事は、往々にして上手くいかない。



//凪に嵐、寒波まで(翔馬と華虎のはなし)







2018-02-28