体育館裏なんて、一昔前のリンチに使われそうな場所に置かれたベンチを、初めに見つけたのは翔馬だった。背中合わせに置かれた、どこにでもある一組のベンチ。これが、嫌いな先生がいるだの、授業聞かなくても大丈夫だのと言っていくつかの授業をエスケープするくせ、学校を休むことはしないこいつの持て余した時間から得た成果のひとつだ。普通の生徒、さらに教師たちですら知らないような場所を翔馬はよく知っている。もはや学校中を網羅していると言われても納得できる。まるで野良猫みたいな奴だ。

「なんか面白いことないかなぁ……ヒマすぎ」

昼休みが始まって購入したフルーツ牛乳はもうとっくに底を尽きたらしい。言葉通りに暇を持て余して、ストローを差したパックの空気を吸ったり吹き込んだり、べこばこと妙な音を立てて翔馬は空を振り仰ぐ。忙しないそれは、集中していない時は少しの間もじっとしてられない、彼の癖みたいなものだった。俺の手の中にも翔馬が持っているのと同じ形、大きさのパックが収まっていて、それには大きな文字で珈琲牛乳、と書かれている。翔馬が奢ってくれたのだ。あの翔馬が。どこかで小銭でも拾ってきたんだろうか。

「最近よく言ってるよな、それ」
「ったりまえじゃん。高校、あと少しだってのに、ときめく事件が何にもない。逆にすごい。まさにモブ人生」
「……事件って、例えば?」
「えー?」

男二人でひとつのベンチに座るというのはかなり抵抗があったから、それぞれ一つずつの端に座った。距離としては一つのベンチに座るのと大差ないのだけれど、気分の問題だ。

「例えば、色気マシマシのお姉さんに優しく構ってもらったりとか」
「うん」
「いきなり誰かから好きにしていいよ! ってバイク貰ったり」
「すぐ分解しそうだな、お前」
「あとは、ん〜、なんか事件が起こって、高校が四年制になったりとか」
「……それはいいかもな」

翔馬の柔らかな髪がふわふわ、風に流されるタンポポの綿毛みたく揺れる。もたれ掛かるように身を乗り出してくるものだから、頬にあたって少し擽ったかった。

「……重い」

本当はたいした重量もかかっていないのだけど、申し訳程度に不平を溢す。翔馬は少し上目使いにこちらを見つめて、にたり、チェシャ猫みたいな笑顔を浮かべてみせた。

「ねぇ、華さぁ」
「うん?」
「例えば、大学いって、就職して、おっさんになってもさ、こうやってベンチに座ってくだんない話してくれる?」
「急になんだ」
「ふと思っただけ」

軽い口調と裏腹に、どこか寂しそうで、どこか思いつめた表情だ。コーヒー牛乳の件といい、いつも笑顔の彼にしては珍しい。そんな翔馬の顔を見た時、いなくなった兄を思い出してしまったのは、どうしてだろう。

翔馬。胸でちりちりと騒ぐ違和感に、名前を呼ぼうと口を開いたが、途中で間の悪い予鈴にかき消されてしまった。行かなければ、と頭の冷静な部分が急かして、ベンチから腰を上げる。振り返るとまだべこばこやっている翔馬がひらひらと後ろ手を振って授業に出る気がないことを示した。そう言えば次は、彼が嫌いな先生が担当の漢文だ。彼のエスケープ癖に慣れてしまった華虎は、踵を返して教室に向かう。一歩、二歩。靴の裏が砂利を踏みつけて立てる、決して心地いいとは言えない音を聞きながら、――『華虎』兄の顔が再び過ぎって消えた。

「翔馬」

二度目の呼び掛けは何にも邪魔されなかった。いや、誰かに邪魔されても、また呼んでいただろう。ストローを咥えたまま、何事かとこちらを見ている彼を見据え、華虎は少しだけ思いを吐き出すことにした。普段は言わない思いを、ほんの少しだけだ。

「お前が思ってる以上に……、俺は、お前に救われてる。だから、今度は俺も返さなきゃいけない、……いや、返したい」

翔馬がこちらの言葉を聞き届け、それからぽかんと口を開いた。鳩が豆鉄砲をなんとやら。支えを失った紙パックが彼の口元から転がり落ちる。驚くのも無理はない。二年ちょっとの付き合いの中、こんなにも華虎がストレートに自分の気持ちを話したことはないからだ。

呆けた声を出す翔馬をよそに、そしてなんだか笑えてきてしまった華虎は、堪えきれない笑みを浮かべたまま「爺さんになっても、フルーツ牛乳飲もう」言葉をゆっくりと続けていった。返事は全く帰ってこない。思った以上に恥ずかしくなってきた。じわじわ顔に血が集中してきていることを感じつつも翔馬を見据えたままでいると、彼は声高高に、普段よりもっと弾けるような声で笑った。

「翔馬爺さんを糖尿にするつもりかよ!」




2018-02-28