やらかした。二週間が過ぎても、その五文字は星也の頭を占めていた。仕事場で長い溜息をつくと、何も知らない後輩から「幸せが逃げますよ」と茶化される。幸せ、幸せかぁ。なんて、思いながらも力ない笑顔を返して誤魔化す。星也にとっての幸せの象徴は、既に遠ざかっていた。勿論溜息なんかのせいではなく、自身の手によって。

夜遅い時間だったこともあって、あの後ニカノールは直ぐに寝落ちてしまった。毛布をかけたあと、彼の寝顔をなんとも複雑な気持ちで眺めているといつのまにか星也も隣で眠り込んでしまった。けれども目を覚ますとニカノールの姿はどこにもなく、代わりに机の上に『またね』という拙い文字で綴られたメモが一枚、残されていただけだった。メモを見て、一晩経って冷静になった頭が綺麗に醒めていく。

やらかした。そうして謝るタイミングを見失った星也は以来ニカノールを避けていた。ネットゲームは普段ログインしていた時間を避け、時折彼から送られてくるゲームの誘いも仕事が忙しくて、なんて嘘をついてのらりくらりと躱してしまっていた。彼に会いたくないだとか、そんな理由ではない。『やっぱりそういう風には見られない』と言われることがただひたすらに怖くなったのだ。

目の前のモニタにずらりと並ぶ文字列を、どこか現実味なく眺めていると、後輩から食事に誘われた。ふと気付けば既に夜の八時を回っている。身が入らないままよりマシか、と席を立とうとしたその時、携帯電話の液晶画面だけがいきなり明るく輝いた。画面を見てみると、着信を告げる画面。そこにはこの二週間、どれだけ思い返したかわからない人物の名前が書かれていた。

普段彼からの連絡といえば、ゲーム内のチャットか、メッセージ、ネット電話を介したもので、一応教えていた携帯番号でのコンタクトは、初めてのことだった。のっぴきならない事態なのだろうかと心の準備も出来ないまま、星也は携帯電話を手に取り逡巡する。

「……ごめん、先に行ってて」
「えぇー、なんスか、彼女?」
「あはは」

努めて明るく返事をしながらフロアを出る。人通りのない非常階段への扉を開くと冷たい風が身を刺した。まだ鳴り続けている携帯電話に目をやって、意を決して受信ボタンを操作する。すぐに耳にあてた電子機器からは『……せーやさん?』酷く心配した声色が流れてきた。聞き慣れていたはずの声がなんだか無性に胸に沁みて息苦しくなった。

不思議な感覚を誤魔化すために、せーやさんだよー、なんて、不自然に茶化すみたく返事をする。すると電話の向こうから、酷く、本当に安心したような声で『せーやさんだ……』繰り返し名前を呼ばれた。予想外の声色に、思わず動揺して取り出そうとしていた煙草を箱ごと落としてしまった。なにそれ。なんだってそんな、声出すの。ニカノールに対する、星也の良くない癖が鎌首をもたげた。

箱が落ちる音が聞こえたらしいニカノールに大丈夫かと問い掛けられて、慌てて大丈夫だと笑いかける。地べたにしゃがみ、落ちた箱を拾い上げながら「せーやさんに用事?」と、茶化す口調はそのままに問いかける。すると、問に対する答えが返ってくるまでに、今度はほんの少しの間が空いた。箱の中から一本を片手で取り出して、彼の返事を待つ。口に銜えて火をつけた所で、やっと静かな声が返ってきた。

「……話、する、したい。から、会いたい」

来た。一口吸い込んだ煙を緩やかに吐き出して、星也は自嘲気味に笑った。きっとこの時は来ると思っていたし、それを避けてきたのだ。逃げられなかったかぁ、なんて弱い自分が笑っているのを無視して、全ての煙を吐き出し切った。

「うん。……いいよ、どこで会う?」
『せーやさんち』
「え? 俺んち?」

怯えを隠すように銜えた煙草のせいで、くぐもった返事になったかもしれない。それでもニカノールは変わらずに、せーやさんち、と繰り返す。この子、星也の家で何があったのか忘れてしまったのだろうか。

絶対にそこは変わらないという意志を感じる口調に若干気圧されながら、少し困った。既に星也にとってあの家で2人で過ごす、というシチュエーションは危険信号を放っているのだ。

それでも少し心配そうに『だめ?』と打診されれば、星也に拒否は出来そうにもなかった。最早自分がせめて出来ることは、理性を飛ばさないことと、何を言われても笑えるように心の準備をするくらいだろう。

「わかった、いいよ」
『! うん』
「……じゃあ、今週の土曜はどうかな。昼には帰れるようにするから」

安堵した様子のニカノールとは反対に、じわじわと心に溜まる苦しさで、零した笑いが少し掠れたかもしれない。何を言われても、仕方ない。性別だって、年齢だって、おおよそ彼に相応しいとは思えない。

――ただ、せめて自分の中で何も無かったことにはしたくないなぁ、と、もう一口煙を吸い上げながら、そんな未練がましいことを思ってしまった。これも、星也のニカノールに対しての、悪い癖。



//期待とオーバーヒート・中編(星也とニカノールのはなし)







2019-01-06