目が覚めた星也は外で雀が鳴く声を聴きながら、ただ一言「もう今日で時が止まればいい……」と呟いた。

個人的な休日出勤は、オフィスに誰もいないから気楽でいい。と、いうより、今誰か他人に茶化されようものなら星也の精神が死ぬこと間違いないので、本当に助かった。やらなければならないことを済ませ、席を立った時間は予定通りの十一時半。予定通りの進捗が嬉しくも辛くもあった。携帯のメッセージアプリから、『十二時には着くから、いつでもいいよ』と、待ち人に連絡を入れる。数分も経たないうちに返ってきた簡素な返事に、星也はゆるりと息を吐いた。さて、帰宅して彼がやってくるまでは、執行猶予期間だ。

なんて、思えていたのは車を停め、マンションの玄関に辿り着くまで。玄関先に設置された煉瓦造りの花壇に浅く腰掛けている青年は、星也がよくよく知っている人物だった。あれから三十分で、それなりに離れた星也の家まで来たというのか。

驚いて声を掛けることすら忘れた星也がその場に立ち尽くしていると、彼は携帯電話に落としていた視線を徐ろに持ち上げてこちらを見た。瞬間、ふにゃり、と、その顔が緩む。ニカ。こちらが名前を呼ぼうと口を開くよりも先に「せーやさんだ……」と、いつかに電話先で聞いた安心しきった声が、星也を呼んだ。

電話先ですら、あれだけの破壊力だった。目の前で緩んだ笑みと共に口にする呼び声もまた恐ろしく星也の動揺と期待を誘う。だから、なんだってそんな顔、そんな声。

それでも変なプライドが、なるだけ動揺を隠して「 うわごめん、寒かったでしょ」と何事もない世間話を口にさせる。ニカノールが何かを口にしていたけれど、あまり頭には入ってこなかった。

他愛もない話をしながら部屋までの道を先導する。幾度となく遊びに来た部屋に、ニカノールは慣れた様子で靴を脱いだ。星也としても、もうどこがリビングかなんて教える必要もないと知っている。

なにか飲み物をと、キッチンに入り冷蔵庫を開いた。あまり自炊をしないせいでものが入っていない癖に、彼が好む飲み物はしっかりと収まっていて自嘲気味に笑った。いつのまに買っていたのだろう、買ったことすら忘れていた。

そうして飲み物とグラスを手にリビングに戻ってきた時、ニカノールは丁度ソファに座るところだった。――そっかぁ、そこに座っちゃうかぁ。内心で星也は半眼にならざるをえなかった。最早その場所は、星也とってしでかしてしまったことの象徴だ。だというのに、ニカノールの存在が合わさることによってまざまざと思い出されて頭が痛い。

サイドテーブルに飲み物を置いて、カーペットの上に座る。きょとんとしたニカノールを見上げて、星也は一息を置き「ごめん」と、長い間言えずにいた言葉を口にした。受け取ったニカノールはと言えば、言葉を理解しきれていないのか首を傾げてこちらを見つめている。

「? ごめん?」
「……この間、やりすぎた。ニカの気持ちを無視してた」

真っ直ぐな目に問いかけられると、急に居心地が悪くなる。それでもちゃんと見ないと、受け止めきれていない気がして、その黄緑を見つめていた。『そんな風には見てなかったのに』『あんなことされると思わなかった』『もう会えない』鬱々とした思考回路が次のニカノールの発言を作り出す。

「……せーやさん、ここ、来て」

けれども数秒を置いて彼の口から出た言葉は、どれでもなかった。ニカノールは自分の隣、ソファを手で数回叩く。しでかした場所に戻ることは、星也にとっては少し苦しかったけれど、示された通りに隣へ座る。ニカノールの意図が分からずに彼の動向を探っていると、彼はすっと、その手のひらをこちらへと向けた。

「手、出して」

またもや口にされた指示。戸惑いのままにニカノールの方へ手を差し出す。空中に頼りなく浮いた星也の手のひらを、ニカノールの手が支えた。細く長い指が、するりと絡み、手首を返される。あたたかい熱と握られた感覚に驚いていると、至近距離の彼は目を伏せて、先ほどよりもっと、ずっと、幸せそうに頬を緩ませて笑った。

「……やっぱり、やじゃない」
「へ?」

次々と起こる予想外に、頭がついて行かずに間抜けな声が漏れる。そんな星也に気付いてか、それとも気付かずか、伏せた黄緑色が戻ってきて、へにゃりと緩んだ。

「会う、出来なくて、えと、……寂しかった」

優しく握られた手に、少し力が籠る。

「会う、出来て嬉しかった、から。俺も、せーやさんと同じ、すきだと思う」

噛み合っていた視線が、恥ずかしそうに逸らされる。

「あの先、すぐ、できない、けど。ちょっとずつがんばる。まって」

また戻ってきた彼の目には、嘘なんて何処にも見えず、ただはっきりとした意思がそこにあった。静かに告げられた言葉があまりにも星也にとって都合が良くて、思わず夢を見ているのかと動揺した。ずっと彼に対して抱いていた良くない癖が、ニカノール自身の手で瓦解していく。気付けば彼の手を握り返していた。

「いくらでも、待つよ」

不安が緩やかに溶けていく。握った手を引き寄せ、口許に寄せて握り締めた。張り詰めていた気持ちが落ち着くと、自然に表情まで緩み、ついでに涙腺までも巻き込まれてしまったらしい。ほんの少し泣きそうになってしまって、慌てて目を伏せ誤魔化した。

頭の上から降りてくる優しい声は「せーやさん、すきだよ」なんて、夢を見ているような台詞で、多幸感に息苦しくなる。

夢だとしたら、覚めなくていい。そんなことを思いながらこちらから絡め直した指の温度は、全て夢じゃないと教えてくれるほど、優しく、暖かかった。



//期待とオーバーヒート・後編(星也とニカノールのはなし)







2019-01-06