希望だった大学の職に就いて、全ての環境ががらりと変化した。 第一に、住む場所が変わり「おはよう」を言う相手が家族から恋人になった。毎日朝に弱い美照を起こしてくれる恋人に言う「おはよう」は格別な幸せに他ならない。第二に、教わる側から教える側へと立場が逆転した。毎日通っていた大学であることには変わりないが、行うことはまるで反対。慣れないながらも学生達に向き合い、一ヶ月が過ぎた。そして変化の三つ目は、つい、今しがた。 所謂初任給の明細を手にした美照は、これをどう使うか迷っていた。なにせ今までアルバイトで手にした額とは桁が違うし、初めての給金ということでなんとなく、日々と同じ暮らしの中で消費するのも憚られるような気がする。 そうして悩み、唸りながらハンドルを握ったその時、自分の左手が目に入った。正確には、その薬指が。ふわりと過ぎった愛しい顔は、何時だかにプレゼントした玩具の指輪を大事そうに見つめる横顔だった。 ★ 今か今かと待っていた音は、いつもよりさらに遅い深夜に帰ってきた。夜更かしに適していない朦朧としていた意識が途端に覚醒し、ドアの方へと視線を寄せる。 「よしくん、ごめんね、遅くなっちゃった!」 眉を落としてドアの向こうからやってきたのは小柄な恋人だ。ソファの上に座った美照の元へと小走りで駆け寄り、ぎゅっとこちらに抱きついてくる。ふわりと香る彼の香りと温度に、すとんと心が落ち着くような気持ちがした。羽美という存在がいるだけで、こんなにも穏やかになれるのだから本当に不思議なものだ。 柔らかな髪の毛が伝う羽美の首元に頭を埋めて「おかえり」と笑う。彼は幸せそうに笑い返してから肩口に顔を寄せて、すんすんと小さな鼻を鳴らし始めた。 「え、羽美さーん……?」 「えへへ、よしくんの匂いがいっぱいするー。お風呂入った?」 「まだ。羽美が帰ってきてからにしようと思って」 「ほんと! 嬉しい、一緒に入ろう?」 「……ん」 言葉通りに嬉しそうな笑顔を零す羽美に、思わずこちらも顔が緩んだ。恋人の一語一句が可愛らしく、表情の全てが愛おしい。至る所で『恋人バカ』と表現される美照だが、これはバカならざるを得ない状況だ。 「ふふ、僕、よしくんの匂いだーいすき」 けれどもこの行動は、いつものことながら美照のキャパシティをオーバーしている。すんすんと鼻を鳴らしながら、次第に耳元まで顔を寄せてくる羽美の香りや息遣いがダイレクトに伝わってきて、思わず腰元を緩く掴んで制止してしまった。 「ちょ、まったまった」 「……ふふ、お顔真っ赤だよ、照れ屋のてるくん?」 幸せそうに意地悪を言われると二の句が告げられない。言葉に詰まって、なんとか「羽美のせいだろ」と呟くと、彼は一際笑みを深くした。美照の初心な反応に満足したのか、体を離した羽美はソファから降りて浴室の方へと体を向ける。 「あ、羽美」 離れていく手首を掴んで引き止める。唐突な制止で驚いた羽美がきょとんとする姿に、今更ながら緊張で高鳴っていく心音が煩かった。 「ちょっと座って」 「? うん」 華奢な手首をゆるりと引きソファに座らせると、美照は一度息を大きく吐いて、それからカーディガンのポケットに手を差し入れた。ひやりと冷たい金属の質感を引っ張り出して、羽美の手を取り、その手の中に淡い白金色の指輪を収める。 「……これ」 「えぇと、初任給、出てさ。真っ先に使い道、これが出てきた。……付けてくれる?」 指輪を認知した瞬間、羽美の口から驚きの声が零れた。唖然とする姿になんだか気恥ずかしくなって、誤魔化すみたいに首後ろに手を当てる。 「そんな大事なお金、……いいの?」 「うん。羽美に貰ってほしい」 手に取った羽美の手は、いつもより少し熱い気がした。細く伸びやかな薬指に指輪を通す。白い肌に白金色がよく映えて、自分の選択は間違ってなかったな、なんて思わず独りごちてしまった。最後まで指輪が通る時、手元を見つめていた羽美の額に口付けた。同時に彼の口から「みゃわ」だか「ひゃわ」だか、不思議な声が飛び出す。 「……待って、ちょっと、……えっと」 「……? 羽美?」 じわりじわりと俯いていく彼の顔を覗き込む。赤い頬、緩く下がった眉に、潤んだ目元。そこに居たのは顔を真っ赤にして照れる羽美だった。普段は全く照れずに美照に触れてくる彼なのに。比較的長い付き合いの中でも初めて見る表情に驚くも、数秒後にはその赤さが愛おしくて堪らなくなった。 「……どーしちゃったんだよ、照れ屋の羽美ちゃん?」 そっと頬を撫ぜるようにして指を滑らせ、同じ意地悪を言ってみせる。薄いグレーの瞳がこちらを恨めしそうに睨めつけたが、その表面に浮かぶ水分量ではあまりにも迫力がない。思わず笑ってしまうと、じわりじわりと涙は増えていき、やがて表面張力を破って頬に伝った。思わぬ涙に少し焦る。彼は下がった眉をさらに落として顔を上げた。 「だって、こんなの、嬉しすぎるよ……」 細めた瞳から大粒の涙が美照の袖に落ちて染みを作る。愛おしそうに白金色を纏った左手を唇に寄せながら涙を零す姿が堪らなく綺麗で、何だか美照まで喉元が熱くなってしまった。そっと引き寄せて細い黒髪を撫ぜる。 「……羽美、大好きだよ」 自然と口から零れた言葉を聞き届けた羽美の笑顔は、美照の幸せそのものだった。 //指通す円は白金(衛藤と羽美のはなし)
2019-06-20 |