楽しかった高校生活が、終わろうとしている。 とは言っても、夏乃子はまだ一年生。実際に終わるのは今日卒業式を迎える三年生たちだったが、それは夏乃子にとっても同じことだった。三年生の存在こそが登校してくる大きな理由であり、この半年が楽しかった理由のほぼ全ては彼らのお陰に他ならないからだ。 目の前で一人ずつ、名前を呼ばれて卒業証書を手渡される。よくよく知った名前、一番口にした名前が呼ばれた時、夏乃子は壇上を見ることが出来なかった。 首席による答辞が読まれる。普段と違い、明るい前髪を下ろした姿がやたらと別人みたいで悲しかった。 そうして式はあっさり終わりを迎える。立ち上がる卒業生たちの元に在校生たちが向かっていく。いきなりガランとしたパイプ椅子の群れの中、夏乃子だけが動けずにいた。 「建花寺先輩!」 遠くで誰かの声が彼の名前を呼ぶと、堪らなくなる。思わず席を立ち上がり、人がざわめく体育館から逃げ出した。目頭がやたらと熱くて、熱くて、どうにかして熱を逃がしたくて涙を零した。こんな日が来るのは分かっていたし覚悟をしていたはずなのに、やはり目の前にすると何も出来ない。言いたいことも沢山あった筈なのに、これが最後になるのに。 夢中で逃げた場所は三年生の教室だった。誰もいないがらんどうのその場所では、当然夏乃子を見つけ「通い妻が来たぞ」なんて茶化す声はない。一番右で、一番後ろ。陽の光がよく当たるその席の前が夏乃子の特等席だった。 昼前の日光が、綺麗に教室を照らす。誘われるように椅子に座り、後ろの机にうつ伏せた。ぽかぽかと暖かい陽気が無性に心地よくて、このままみんなが帰るまでここに居ようかな、なんて自分を甘やかす気持ちが首をもたげた。 と、その時、ガラリと無遠慮なほど雑に教室のドアが開いた。驚いて体を持ち上げると、そこにはどこか疲れた顔をした華虎が立っていて、夏乃子を見つけてキョトンとした顔をする。 「え! あ! え!? 何してるンですか!? 卒業式は?」 「……? 忘れ物」 思いもよらない人物の登場に、夏乃子は弾けるように立ち上がり行き場所のない手を彷徨わせたが、いつだってこちらの動揺などお構い無しの華虎だ。つかつかと寄ってきて、自分の机の中に手を突っ込んだ。 引き出されたのは分厚い本で、この人卒業式のギリギリまでこれを読んでいたのか、なんて思わず半眼になってしまう。そんなところも彼らしいと言えばそれで終わる話だが。椅子に座り直し、そこで今日初めてきちんと彼の姿を認識した。 「……あはは、センパイ、上着は?」 「欲しいって言われたから」 「ふふ、ボロボロじゃないですか」 ブレザー、なし。ネクタイ、なし。シャツのボタンも二番目までなし。ベルトもなし。人にあげられるギリギリまでを譲り渡しましたという風貌の華虎に笑ってしまった。まぁ、在校していた時から女子人気だけは有り余っていた彼だ。そうなるのも無理はないか。 そんなことを思って苦く笑う夏乃子だったが、不意に覗き込まれた顔にその笑みも長くは続かなかった。いつも通りの眠たそうな目が真っ直ぐにこちらを刺す。次いで「……泣いてたのか?」なんてまたしても不意に尋ねられて、慌てて誤魔化すように笑ってみせた。 「えぇ? そンなわけないじゃないですか、センパイたちの晴れの日なのに」 「そうか」 華虎はいくら疑わしくても追求をしない。そんなところが夏乃子にとって、居心地が良い理由の一つだった。 「ただね、カノコ、すごくたくさん此処で過ごしたなぁって思い返してました」 「休み時間は必ずそこだったからな」 「ふふ、だってココが、一番好きだったンですもん」 「……うん、俺も此処はお気に入りだった」 それは、その席が? それともそこを取り巻く環境が? いつも通りの仏頂面のまま指で机をなぞる華虎に、聞けるはずもない問いが頭を過ってまた目頭が熱くなった。今は泣けないのに、困った。 「ね、けんげーじセンパイ。大学で寝てばっかりじゃダメですよ」 「うん」 「ちゃんとお父さんとお話するンですよ」 「うん」 「お話、書いていてくださいね」 「うん。……それ、どういう顔だ?」 言葉を交わす度に胸が痛くなる。問いかけられて初めて、またしても泣きそうな顔をしていた自分に気付いた。 「やっぱり泣いてた?」 「違います、今初めてです」 「なんで?」 「……だって、センパイたち、みんな居なくなっちゃうから」 言ってしまった。言わないようにしようと思っていたのに。口にすればもう言葉は戻ってこない。こんな恨み言みたいなことを告げるつもりじゃなかったのに。罪悪感で彼の顔が見れなくなる。ぎゅっと結んだ手の指に、ササムケを見つけてやだなぁなんて、妙に遠い思考で思ってしまった。 「別に、二度と会わないわけじゃないだろ」 「会わないですよ、みんなカノコのこと忘れて、それぞれどこかにいっちゃうンでしょ」 あぁ、嫌だ。まるで決めつけた言い方じゃないか。やだ、やだ。そうしてぐるぐる渦巻く息苦しさに、乱れていく息をぴたりと止めたのは他でもない華虎の一言だった。 「忘れないぞ?」 思わず彼の顔を見る。陽の光に当てられて少し眩しそうに目を細めた表情が、なんだか優しく笑ってるように見えた。 「忘れようがないだろ」 繰り返される穏やかな声に、二の句が告げられなくなる。返事に困っていると、華虎はそれすらも気にしていないとばかりに言葉を重ねた。 「熊楠こそ、学校、無理ない範囲で通うんだぞ」 「……はい」 「あと俺ら以外にも興味を持つこと」 「……善処します」 「ん。……あ、そうだ」 まるでさっきの夏乃子の台詞をなぞる様だ。少し不満に思いながらも反発せずにいると、唐突に彼はポケットに手を突っ込んで、それからゆるりとこちらへ差し出した。 「え?」 「前、欲しいって言ってたろ」 促されるままに両手を差し出すと、軽い音を立てて、たくさんのボタンが落ちてきた。黒いそれは夏乃子の制服にもついているボタンそのもので、言われてやっと一月前くらいに彼の前でそんな話をしたことを思い出す。 ジャケットがないから、一緒に渡したのかと。疑問をそのまま口にすると、彼は渡す前に全部千切ってもらったと言う。 ――「あ……。ちょっと待ったこれ千切ってくれ」「はぁ!? か弱い乙女に何させてんのさぁ」「……? 乙女?」「コラ」 千切ったのでなく、千切ってもらった、という辺りが華虎らしい。きっとこんな感じだろうなというやり取りがまざまざと脳裏に浮かんで笑ってしまった。 「……あはは、……普通第二ボタンだけですってぇ」 手のひらから零れそうなくらい沢山のボタンが、まるで彼から貰ったものを表すかのようだった。緩んでいく涙腺に気付いた華虎が、塞がった両手を気遣ってか手を伸ばす。が、その指が涙に触れるより先に、がたり、と大きな物音に夏乃子がびくつくほうが先だった。 慌てて振り返った先には沢山の視線。途端に顔を真っ赤にした夏乃子が叫び声を上げるまで、あと少し。 //欠けたまま、何処までいける?(夏乃子と華虎のはなし)
2020-07-18 |