「センパイ」

うっそでしょ。

新妻の口から飛び出してきた呼び名に、思わず翔馬は驚愕の声を上げた。呼んだ側と言ったら、なんでそんなに驚いているかわからないと、大きな茶色い瞳を真ん丸にしている。それは呼ばれた側も同じようで、いつも眠そうな黒色の瞳が、翔馬を訝し気に見つめてきた。

呼んだ側は夏乃子。呼ばれた側は華虎。どちらも翔馬の高校時代からの友人である。そんな彼らはつい先月、晴れて夫婦となった。翔馬も結婚式、披露宴、どちらにも出席したし、祝福を受けて気恥ずかしそうにしている姿も見た。なので、夫婦になったことは間違いない。間違いないはずだ。
だというのに未だに妻から夫への呼び名が『センパイ』だった。これは驚きだ。こちとら仕事の合間を縫って、新婚夫婦の生活を野次馬しに来たというのに。

「うそ、カノちゃん、まだ華のことセンパイって呼んでんの?」

出してもらったコーヒーを机に置きながら問いかけると、夏乃子は翔馬の驚きをやっと理解したらしく、一瞬でかぁっと顔を真っ赤にさせた。

「え、だってなンか、はず」
「……あれ、そういえば今日はそうだな」

恥ずかしいじゃないですか、と、言いたかったのだと思う。長年付き合っている間柄、夏乃子がこういうときに言うことも予測がついた。けれどもそれよりも先、こちらもこちらでやっと気付いたらしい華虎が零した言葉にすべてを持っていかれる。夏乃子とほとんど同時に、呑気にお茶をすする華虎を凝視してしまった。

「え? 『今日は』って言った?」
「うん? ……うん、いつもは」
「あーっ!! あの! カノコ、大学のレポートやらなきゃなので! これで失礼しますね! しょま先輩、また来てください!」

突然の大声に耳が痛んだ。真っ赤なままの夏乃子は慌てて席を立つと、勢いよく障子を開け閉めして座敷から出ていってしまった。障子の向こうで何か転んだような物音がしたが、すぐに軽い足音が遠ざかっていく。そんな様子を半眼で見送りながら、そのままの目で華虎の方へ視線を戻すと、本人は全くのどこ吹く風だ。――本当にこいつも罪な男だなぁ。

「で? 普段はなんて呼ばれてんの?」

にんまりと口角を上げて身を乗り出してみると、彼はなんでもない顔で普段の呼び名を答えた。それはいかにも夫婦らしいもので、あぁ、まぁ、今までを考えてみたらそりゃあ恥ずかしいはずだ。

「せっかくなら直接聞きたかったな〜」
「あの様子なら、数年はかかるかもだろ」



//変化に惑う(夏乃子と華虎のはなし)







2021-05-26