いつも何処か、言い知れない焦燥を感じていた。目の前に問題が立ち塞がっているわけでも、行く先に壁があるわけでもなんでもない。それなのにいつもいつも、俺は焦っていた。何か動かなければ、何か考えていなければ、真っ逆さまに落ちていくような感覚があった。

 そうして毎夜、遅くまでこうして仕事のことを考えている。落ちていきたくはなかった、やっと得た生活だ。現状維持ならまだしも、下回ることは考えられなかった。深夜になると、ただでさえ大通りから一筋離れたこの家はしんと静まりかえる。目の前の電子画面に数字を打ち込みながら、染は小さく息を吐いた。

 そんなとき、背中に位置する場所でドアが開く。振り返った先には不機嫌そうに口をへの字に曲げた恋人、令和が立っていて、いかにも気怠そうにドアへと凭れながら両腕を組んでいた。

「もう寝るぞ」

 ぶっきら棒に向けられた言葉は、確かにこの時間には相応しい。

「うん、お休み」

 彼の職は保育士という体力仕事だ。睡眠を沢山摂るに越したことはない。手にしていたカルテを離さないまま、にっこりと笑いながら挨拶を返した。けれどもその言葉に返事は返ってこない。それどころか令和は不機嫌そうだった口をさらに曲げて、眉根を顰める。何か変なことを言っただろうか。染が内心首を傾げたころ、「まだ寝ねーの」と挨拶の返事以外が返ってきた。

「うん、もう少しやろうかなって」
「……それ、今やらなきゃなんねーのかよ」

 なんだか今夜は、珍しく良く問いかけてくる。次々と尋ねられた染は疑問の色を濃くしながら、そうでもないけれど、と言葉を濁した。そうでもないけれど、やりたいことではあった。常について回る焦燥感を散らすために丁度いい行為であることに間違いはなかったからだ。染の返事を聞いて、不機嫌屋はふんと鼻を鳴らす。それからずかずかとこちらへと近付いてきて、染が握っていたマウスを後ろから奪い取った。

「はよ寝ろ」

 唐突な恋人の言動に、何から何まで理解が追い付かない。それでも真横の横顔は、わずかに紅潮しているように見えた。端的に言いながら淀みなくPCを操作する令和は、すぐにすべての画面を保存してシャットダウンにまで持ち込んでしまった。

「……もしかして」
「は?」
「……心配してくれてる?」
「はァ?! ちっげえよ、夜中までカタカタやられてると気が散るだろうが!」

 ふと頭の隅に過った仮定を口にすると、仄かに赤い顔が一気に燃え上がった。次いで至近距離にいることが恥ずかしくなったのか、一歩後ろに後ずさる彼は一通りの文句を言ってから、自らの口元を片腕で隠す。音なんて聞こえるはずがない。接客をするこの一階と、二階に位置する寝室には距離がある。その言葉で確信を得た染が思わず笑ってしまうと、彼はますます恥ずかしそうに言葉に詰まって、ぶっきら棒にこちらの手首を掴んだ。

「いいから寝るぞ、ばか本川」

 ぐいぐいと強い力で引っ張り、扉を閉めることも許さないまま二階へと足を進める令和は、まるでこちらの顔を見たら恥ずかしさで死んでしまうと言わんばかりだ。階段を上る間も、廊下を渡る間も、さらには寝室のベッドに潜り込むまでの間、一切染の方を見ないままだった。しばらく無人だったベッドの中はしんと冷え切るような冷たさがある。ベッドの隅で体ごと背けた令和の方を見ると、衣擦れの音に気付いたのか、はよ寝ろ、と追加で言葉が飛んできてしまった。

「……ねぇ、もうちょっとだけこっちに来てくれないかな」

 誘ってきた割にはつれないな、と苦笑いをしながら告げると、令和は数秒の間を置いて、さっきまでと打って変わった緩慢な動きでこちらへと寝返りを打った。薄暗がりに慣れきらない目でもわかるくらい、何とも言えない照れた顔をした彼に、そっとこちらから近付く。慌てて身を引こうとした肩を引き寄せて、その体躯を抱き寄せた。

「ばっ、ちょっとだけって」
「ダメ?」
「ダメに決まってるだろうが!!」

 頭の下でわあわあと騒ぐ令和の様子に堪え切れない笑いを零して、しい、と優しく制止する。

「くそ、調子に乗りやがって……」
「だって一緒に寝るならさ、温かい方がいいじゃない」
「別におめー温かくないじゃんか」
「あはは、龍威くんが温かすぎるだけだよ」

 憤慨した様子を無視して目を閉じると、彼の体温が身に沁みるようだった。

 あ、落ちていく。ゆらりと落下していく感覚。それでも不思議と、焦りはなかった。おやすみ、ともう一度投げかけた挨拶に、今度はぶっきらぼうに端的な言葉が返ってくる。この温度となら、不思議とどんなことも怖くないのではないか、と、なぜだかその時は無意識にそんなことを考えた。



//溶ける焦燥(本川と令和のはなし)







2019-12-27