雨の香りは、どちらかというと嫌いじゃない。雨上がりの香りも、降ってる最中のマイナスイオンばりばりな感じも結構、好きだ。だから、ある意味結果オーライ。

 腹から流れてゆく血が、じわじわと雨に染み出して排水溝へと向かってゆく。濡れた地面には先程オレの腹を貫通したナイフが一本。鈍く鋭い光を放つそれは、鏡のように雨に濡れたオレの顔を写した。思ったよりも酷い顔をしてない。元がいいからか、なんて一人ふざけてみる。

 長い人生とは言えなかったが、この雨の中で死ねるなら、まぁそれはそれで幸せじゃなかろうかとさえ思いながら、傷口を押さえていた手を退けてコンクリートの地面を押さえた。体を持ち上げるようにして体制を変える。ひやりとする冷たいコンクリートに身を横たえ、ばしゃばしゃと淀みなく降ってくる雨を見つめていた。

 あぁ、やっぱ横になった方が楽だ。

 雨の香りは、どちらかというと嫌いじゃない。だから、結果オーライ。そうして安定しない息を吐いて痛みを忘れようと努めたとき、急に頭上に影が差した。目の前には黒い革靴。首を上げるのさえ億劫で反応しないでいたら、革靴の主が唐突に足先でオレの顎を無理やり引き上げ「生きているじゃないか」と、とても憮然とした声で宣った。なんだこいつ。

「うぜ、ぇ、」

 オレから相手の顔は逆光になっていて認識できなかった。目を凝らして判別しようとしたけれど、次第に視界が霞んできてそれさえも叶わない。

「なぁ、お前、うちに来るか?」

 相手の平坦な声を壁一枚隔てたように遠いところで聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。視界の端で、ナイフがきらりと光ったのを最後に、この日、オレにこれ以降の記憶はない。


 ***


 「ってなもんで、最初はいい感じだったんですけどねぇ」

 ぷかぷか、口から吐き出されて浮かんでいく煙を見上げながら小さく呟くと、顔面を冷やしたタオルで押さえていてくれた兄貴分は苦笑いをした。彼が押さえてくれている部分は既に目が覚めるような真っ青の青痣だ。これは多分、今よりも時間が経つにつれて痛みが増すタイプのやつ。

「叔父貴は遠慮を知らないからなぁ」
「いや、だからってあの、普通殴るっ? ガラスでできたでっかい灰皿で? 歯ぁ折れるかと思った」
「あー……」

 人のいい兄貴分はどちらの味方も出来ずになおも苦笑いだけを返してくる。あの日オレを拾った人物はいわゆるそのミチの人で、とんでもなく気難しく、とんでもなく暴力的だ。もうこの場所に足を踏み出してしまったからにはどうしようもないけれど。今思えばあの時死んでいた方が楽だったのでは、とさえ思うときがある。

 もう自分で押さえてろと、こちらへ手渡されたタオルは若干ぬるくなってしまっていた。まるで今の自分のようだなぁとも思う。ぬるま湯のようなこの場所に浸かって、抜け出せないままだ。

「で、なんで今回は殴られたんだよ?」
「えっ」
「いくら叔父貴でも、理由がなく殴ったりはしないだろ?」
「んー……。ちょっと、腹が立ったんで、一人シメてきただけっす」

 『親父もそろそろ終いだな』そう、言い放った人物に、腹が立った。どれだけあの人が努力をしてこのぬるま湯を守っているか知らないくせに、なんて、自分だって不満を零しているのは同じであるにも関わらず、心底腹が立ったのだ。気付けば手を出してしまっていて、それがバレてこのザマ。やられた側はまぁ口を利ける状態じゃなかったし、かといって弁解をしようとも思わなかった。何せ親父の文句を一番言っているのは他でもないオレだろうし。

 それ以上の返事に困って言葉を濁すと、兄貴分は呆れたような溜息をついて柔らかく笑う。

「叔父貴、そういうのは嫌うからなぁ。でも、お前だって大した理由なくそんなことするようには見えないぞ?」

 ゆるり、と、柔らかくその場に溶けていくような笑顔が、何処か親父と被った。

「ちゃんと叔父貴と話したらどうだ」
「……それこそ今さら」

 時間をおいて、次第にじくじくと鈍い熱さを持ち始めた頬が、なんだか妙に痛痒かった。拾われてから、数年親父の傍にいたけれどオレのことをわかってほしくて本心を告げたことはないように思う。たった数年の短い間だけでも、親父の積み上げてきたものがいかに高いかを知っているからだ。オレの本心なんてその脳みそに入れるくらいなら、他のものをたくさん詰め込んで欲しかった。

「でも、オレ、なんだかんだ、このぬるま湯が気に入ってるんですよね」

 鈍い痛みがやたらと強くなっていくにつれて、なんだか笑えてきてしまった。そうして兄貴が何かを返そうと口を開いたとき、ふと、背後から低い呼び声がこちらに届いた。

「マオ」

 声の主が誰なのか、振り向かずともわかる。大きく、わざとらしく溜息をついて、「なんですかー、オレ、今治療中なんですけどっ」と厭味ったらしく応えてみせると、後ろからくつくつ愉快そうな笑い声が背中にぶつけられた。

「馬鹿だなぁお前は」
「はァ?」
「話は聞いたぞ」

 それだけ端的に、愉快そうに告げられた言葉に、思わずぎくりと体が強張る。仕方なしに振り返ってみると、予想通りに笑っている親父が腕を組んで家の梁に肩を預けていて、あーあなんて今度は内心だけで溜息を吐いた。

「お前がいる限り、終わらせねえよ」

 その次に寄越されたのは、そんな言葉だった。一瞬何のことかと考えたものの、すぐにその答えに思い至る。あぁ、もう、だから、これだから。

「うるっせーよ、この傷の慰謝料マジでふんだくるからなっ」

 言葉にならない感情を捨て台詞に込めて吐き捨てた途端、隣に座っていた兄貴分まで噴き出してきた。信じられずに情けない声で彼の名前を呼ぶと、謝りはするもののまだ笑いは引かないらしい。

 背後で笑われ、隣で笑われ、もうどうしようもない。顔全体が熱くって、傷が熱いだとか、そんな感覚は既になくなってしまっていた。



//ほどけない虚勢(舞生と仁義、叔父のはなし)







2019-11-29