「来月の、あともう一ヶ月先、大会があるんだ」

 ぽつり、と、口から勝手に零れたというような、それでいて悲しげな色を含んだ声だった。彼の足首に注視していた目を向けると、声が声なら、表情も複雑そうだ。一見して感情が読み取れずに名前を呼んだが、彼はこちらに差し出していた足をするりと抱えて、もう一度、「日本語……、再来月、だっけ?」と繰り返した。両足を抱えた179センチの体はまるで幼子の様で、染はどんな言葉を返したものかと口を一度閉じた。

「レイシャは出ないんです?」
「……エントリーしてない」
「そっか」

 大会にもよるが大抵の場合、二ヶ月前でもエントリーは出来ることを染は知っていた。敢えて告げないのは、そんなこと、レイシャの方がよくよく分かっているからだ。彼は出ないという選択をしようとしている。

「出たかった?」

 手足を完全に引っ込めてしまったレイシャに、手持ち無沙汰でカルテに手をつけた。カルテの名前はグレイシャー・ポーラー。今となっては本人が公言しないが、かつて負け無しだったスノーボーダー。ゲレンデで勝気に笑って「よゆー」と叫んだ彼は、この場所にはいない。染の問いかけに眉を顰めて子供みたいに唸る姿は、今まで弱みを見せなかった分の幼児退行だろうか。

「違う」

 端的な返事。きっと言い難いことがあるのだろうと思ったが、染にはその内容がありありとわかった。彼のプレイスタイルを研究するに当たって、かなりの時間を費やしたからだ。静かにその内容を問いかけると、彼は酷く狼狽した顔をして、遂には顔を両足の間に埋めてしまった。

「……そう。俺を負かしたやつが出る。それは、きになる」

 色んな遮蔽物に遮られてくぐもった声は、何だか泣きそうに聞こえる。染は手にしていたカルテを置いて、できる限りレイシャの顔が見えるように床に片膝を付いた。

「したいと思うことを我慢しなくていいんですよ」
「……なにいってる?」

 尚も顔を伏せたままのレイシャに言葉を重ねる。

「負かしてやりたい、悔しいって思ってるでしょう」
「思ってない。もうスノボはいらない」
「要らないなら、気にしなくてもいいはずじゃないですか」
「アイツがミスるの見たいだけ」

 ああ言えばこう言うとはまさにこのこと。けれどすぐに反論を口にするレイシャの姿は、ただの虚勢だ。こんなにも弱っていることを体全体で示しながら、最後の砦とばかりに核心に気付かない振りをしている。

 染は小さく笑って、抱えた膝にそっと指をあてた。即時に反応を示すレイシャは、それでも顔をあげない。ここと、ここ。二箇所を指でつつくと、顔が見えなくてもわかるくらい、戸惑いがわかった。

「無駄がなくてしなやか。きっとこれが、今までのプレイに良い影響を与えたんだろうと思います」
「……だからなに」
「ここね、普通にしていたらつかない筋肉なんですよ。君が努力した証拠」

 どのインタビューでも、彼は勝気に笑って言った。自分は天才なのだと。努力なんて二の次だと。彼の体を先に見ていた染は、それを聞いて不思議に思った。何もせずに過ごして、なるはずのない体。だからすぐにわかった。

「天才だって思わせるために、隠れて全部をやるのは辛かったでしょう」

 奥歯が噛み締められる音を聞いた。

「レイシャ。いいんですよ、負けて天才じゃなくなっても」

 ぎゅうと握りこまれた拳が、痛々しい。

「勿論、君のプライドのために諦めてもいい。でも勝ちたいって気持ちがあるのなら、また飛んで」

 けれど言葉を止めることは出来なかった。普段とは違って食い下がる染を不審に思ったのか、レイシャは少しだけ首をずらした。髪の隙間から覗く青色がこちらを久しぶりに認識する。「……なんでそんなに熱くなってるの」覇気のない弱々しい声が問いかける。染だって初めは少し不思議だった。けれどようやっと分かったのだ。彼のプレイを見ている時の高揚は、まるで映画を似ている時のそれによく似ている。

「だって君の滑りを生で見てないですから」
「……は?」

 端的な回答に、今度こそレイシャは完全に顔を上げきった。こいつは何を言っているんだとばかりにぽかんと口を開けた顔だったが、構わずに染は言葉を続ける。

「レイシャがいいなら、僕も整体師として着いていきたい。君の滑りを見たい」

 呆気に取られた顔は、じわりじわりと可笑しそうに歪んでいく。遂には吹き出してしまったレイシャは「センってやっぱ変だ」と愉快そうに笑い、そのまま、いいよ、と承諾した。

「天才の滑り、見せてやる」

 そう言っていつも見たく勝気に笑う姿は、正しくゲレンデの彼だった。――まぁ、すぐに再開されたストレッチで、再び歪むことにはなってしまったが。



//手負いの虚勢で吠える(レイシャと染のはなし)







2020-08-05