非日常の輪郭

 暗褐色の鱗の生えた、太い腕だった。

 買い与えた薄紫の着物の長い袖から覗く両腕が、少女の物とは思えない異形の物へと変化している。次に変化したのは、ブーツを履いた足だった。革が破ける音とともに、ブーツとタイツが引きちぎれて、その先から巨大な爪が飛び出した。

 突然の事に、目を見開いたのはもちろんリーテンガルだけではない。狼狽えるマフィア達にも構わずに、ヒミツは彼らの方へとその足を踏み込んだ。異形の足が生み出すスピードは、今までの物とは段違いだ。一瞬で距離を詰めてマフィア達をなぎ倒し、ボスであるアンセ・ロンディネへ向かっていく彼女に最早、理性は見られない。リーテンガルが彼女の名前を呼んでも全く反応を返さない彼女は、よほど激昂しているのだろう。彼女の口から高く延びる咆哮は鋭く、マフィア達の体を竦ませると同時に結った簪が解けて、そこから隆々とした角が伸びた。

「な……、女王蜂、お前」

 信じられないものをみたという顔をするアンセ・ロンディネは、なぎ倒されていく部下達を目の前に、リーテンガルの方を見て愕然とした。次の瞬間、彼も体を廊下に倒され、その強固な足に押さえつけられた。此処までで、ものの数分だっただろうか。おそらくヒミツ以外の誰もが、突然のことに体を強ばらせていたから、実際の時間はわからない。

 殺したいだなんて、そんなことは思わなかった。ただ、帝都軍に突き出してしまえば終わりだと、そう思っていた。あの日以来、リーテンガルは人を殺すことをよしと思わない。それを、ヒミツにさせるだなんて。

 驚きに固まっていた足を無理矢理に動かして、ヒミツの前に躍り出る。その瞳は全く同じ色なのに、なぜだろう。身を切るような冷たさを感じて背筋が震えた。

「ヒミツ、もういい、ほら、もう大丈夫だから」

 そういって手を伸ばすも、彼女はリーテンガルの事を認識していない。唸り声はさらに大きくなり、鋭い瞳がリーテンガルを見やったすぐ次の瞬きの前、その腕が腹部に叩きつけられた。反動で廊下の壁に背中を思い切り打ち付け、呼吸が一瞬止まる。

 彼女はまるで玩具を弄ぶようにして、アンセ・ロンディネの体を前足で強く踏みつける。痛みよりも、焦りがあった。悪いことを悪いことだと認識していないヒミツを止められるのは自分しかいないのだと。止まった呼吸を無理矢理に再開させて、リーテンガルはふらつく足で立ち上がる。

 銃声が響いたのは、ほとんど同時だった。一度目に連なって、続けて、二発。

「ヒミツ!」

 アンセ・ロンディネの持つ銃口から薄く煙が立ち上り、彼はヒミツの動向を見逃さぬようにじっと視線をそちらへと投げ続けていた。銃弾は確かにヒミツの腹部を打ち抜いたが、それでも彼女は止まらない。ヒミツは低い声で唸り、アンセ・ロンディネの首に足を乗せ、彼の頭を力任せに掴んだ。へし折る気だ。その仕草に迷いなど見受けられなかった。それでも彼は頑なに悲鳴を上げることも無く、ヒミツを殺そうとその赤い瞳を躍起にギラつかせていた。それでも最早、彼の体はボロボロだろう。痛みに喘ぐ顔は歪んでいて、今までの余裕は見る影もない。

 リーテンガルは爪先を二度床に打ち付ける。立ち上る青白い光はヒミツを範囲に入れないまま、その色を拡大させた。迸る光に動揺したのか、彼女は迷いのない足を少したじろがせた。掌は玩具を掴んだまま、こちらへと振り返る。

「ヒミツ、お前、いい子になりたいんじゃなかったのか」

 その言葉に――、彼女が繰り替えし口にしていた『いい子』という単語に、ヒミツの体が硬直した。温度のない紫色の瞳でリーテンガルをじっと見つめる。数瞬のような、もっと長い時間であったような、そんな沈黙が過ぎた。ヒミツの表情は全く持って読めないまま、睨み合いだ。目を反らした瞬間に、次はリーテンガルが標的になる可能性も高かった。が、彼女は二、三度瞬きをして、掌の玩具を離さないまま、自らリーテンガルの魔法陣の中に足を踏み入れた。ゆっくりと伸ばしたリーテンガルの掌に頬を擦りつける。魔法陣が完成し、一層目映い光を放った。

「……もう敵はいないから」

 言いながらヒミツの腕に引きずられているアンセ・ロンディネを一瞥して、魔法陣の中に入ったのをいいことに、彼の意識を奪い取る。リーテンガルがその頬を撫でてやると、ヒミツは子犬みたいに軽い声を出して、それからそっと目を閉じた。次いで、掌や足の鱗が皮膚に溶けていくように消えていき、彼女の体がこちらに倒れ込んでくる。抱き留めた衝撃に一歩たたらを踏むと同時に、魔法陣が空気に霧散した。留め金を失ってバラバラになった赤く長い髪の毛を揺らし、目を伏せたその横顔には血の気が引いている。紫色の服は最早真っ赤に染まっていて、明らかに血を流しすぎている事がわかった。

 ヒミツ。

 呼びかけながら彼女の上半身を抱き起すと、閉じていた瞳が薄く開き、見慣れた暖かい紫の色を覗かせた。

「リィ、ごめんね、ぼく、いい子になれなかったやぁ」

 ぬるりと暖かな血が、光を受けて不思議な水色の反射光を放つ。謝罪にも懇願にも似た言葉に、リーテンガルは喉が熱くなる感覚を覚えて言葉を飲んだ。慌てて彼女の腹部を抑えたが、生暖かい血は体に空いた穴から容赦なく流れ出す。彼女の大きな瞳はいつも爛々と輝いていたというのに、今となってはその光は鈍く、目尻にじわじわと溜まっていく涙だけが、光を受けて不釣り合いに煌めいていた。溜まった涙が頬を伝い、リーテンガルの腕を濡らす。本能的に、察した。最早手遅れだと。彼女の体には、殆ど血液が残っていない。

「……お前は、いい子だよ。ヒミツ。馬鹿だけどな」


「いい子だから、オレを置いていくなよ」

 ぽつりと零した言葉を、受け止めてくれる人物は最早どこにもいない。血の匂いのする長い廊下の中には、事切れた少女と、気を失ったマフィアだけが残された。唯一意識のあるリーテンガルは熱い喉の痛みを持て余し、瞳から零れた熱いものが何なのか受け止めきれずにいた。


***


 暮れ沈んだ闇の中、一対のヒールの音が響く。後に続くブーツの音は何処にもなく、綺麗に澄んだ冬の空気を白い煙が濁らせる。ころころと鈴を転がすような笑い声が聞こえたような気がして、彼はそっと振り返ったが、そこには街灯の仄かな明かりに照らされた夜道が続いているだけだった。

 暖かな日常が過ぎ去り、非日常が訪れた。オレの日常を今度もお前が持って行ってしまったな。リーテンガル・シャエランは、そう、独り言ちた。

 慣れた足取りで帰路に就き、本拠地として構えた事務所の玄関へと進む。すると、暗闇に慣れた瞳が、何かが玄関の隅に転がっていることに気付いた。――ドアノブだ。申し訳なさそうに転がっているその姿は、いつかに見た非日常の訪れを思い出す。

 まさか。リーテンガルは一気に高揚する気持ちを押さえきれず、足を早め『ドアノブ』を捻った。


//非日常の輪郭(孤独-10)
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2016-09-08
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