アンチヒーロー
「リーテンガル!」
「……もう女王蜂だって言ってるだろ」
「あ、そうだったね、間違った」
銀髪の少年がキセルを燻らせながら、こちらへと走り寄ってくる。その両方で色が違う瞳には、綺麗な色をした蝶々が行き来していた。リーテンガルが呆れた顔で煙草の煙を吹きかけてみせると、彼はしまったなぁと気恥ずかしそうに自分の頬を指で掻く。次いで、今度は背後から大人の男声で呼称を呼ばれて振り返った。
そこには亡き母の愛人だった人物が、何かの書類を手にこちらを手招きしていた。少年の手を引いてそちらへと向かうと、机の上に書類が広げられる。
「初仕事だ。女王蜂」
「ふうん? 母さんの代わりができるかなー」
「できるさ。……ほら、ごらん。ユウレがきちんと調べた。この街を知っているか?」
彼が指刺した書類のうちの一枚は緻密な地図で、その中心の街名の隣には赤い色のペンで『フリーテンス』と名前が書き込まれていた。知らない名前だ。というより、この街から殆ど出ないリーテンガルは、外部の情報に疎い。ゆるゆると首を振ると、彼は仕方ないなぁと言った顔でため息を付いて見せた。
「この街は悪い人が沢山いるんだ。ちゃんと燃やせるな」
「はーい。ユウレも一緒でいいだろ?」
「え、私も?」
不満そうな声を上げながらも、少年の表情は明るい。不釣り合いなその表情がなんだか面白くて、声を上げて笑ってしまう。
「いいだろう。ユウレ、サポートしなさい。ピアントも連れて行くと良い」
「ええ、あいつはいいよ」
「お前が怪我をした時、どうするんだい?」
「リーテンガルとピアントが顔を合わせると、ろくなことにならないんだけどなぁ」
苦い顔をするリーテンガルと少年に、その男はにやりと何処か裏のある顔で、「うちの息子も、オブジェじゃなく使ってもらった方が気分がいいだろう」と、そう言った。
***
何日が過ぎたか、もうわからない。うすぼんやりとした思考の中、そっと光が目を指す。自分の呻き声と、誰のものだかわからない怒号で目が覚めた。――遠い過去の夢を見ていた気がする。
「ほら、まだ子守歌は歌ってないぞ?」
にっこりと笑う相手は、此処にやってきた当初に話した相手とは異なっていた。いつから交代したのだろう。そんなことを脳裏の隅で思って返事をしないままでいると、相手はその厳つい顔をにやりと歪めてリーテンガルの頭を掴んだ。そのまま目の前に張られた水の中に顔を突っ込まれ、空気を失う。
繰り返される拷問には、慣れていた。少年時代、煙草を介した麻薬を摂取した直後の何処か飛んだ思考で、それらに耐えうるように訓練されたからだ。こういう状況では、なにも話さない方がいい。話したところで、それが良い結果になることなど、あり得ないからだ。情報を零したその瞬間に用無しとなり、殺されるのが目に見えている。
頭を水の中へ押しつけられながら、リーテンガルは足をばたつかせる振りをして、そっと床に爪先を打ち付けようとした。が、彼の魔法は、『その場から動かない』ことが前提であり、動いた瞬間に展開した魔法陣は空気に溶けるように溶解する。その性質をよくわかっているピアントの父、アンセ・ロンディネは、リーテンガルを一定の場所に留めておくことをしなかった。常に縛られている状態である上に、相手はこちらの魔法に詳しい。従って、リーテンガルが取ることができる手段は、得意ではないものしか残されていなかった。
責めに飽きた相手は、びしょぬれのリーテンガルを椅子まで戻し、次に何かを手にする。それは、今までとは種類の違う重厚な機械。蝶番の形に似たそれは、片側に凶悪なまでに大きな針が無数に生えている。その機械をどう使うつもりなのか、何となくわかっていた。がちゃんと鈍い機械音とともに、その機械が椅子の肘置きに固定される。そろそろヤバいな、そう確信を得た。
拷問担当が下衆な笑みを浮かべてこちらに顔を近づけたそのとき、思い切りその頭に頭突きを食らわせた。今まで静かにしていた獲物の唐突な反撃に、拷問担当が面食らったのがわかる。ダメージよりも、怯ませることが此処では重要だった。
「お前じゃ話にならない、愚鈍なボスを連れてこいよ」
挑発的に笑って見せて相手の激昂を誘う。わかりやすく乗ってきた彼がリーテンガルの胸ぐらを掴んで引き上げた。自然と体を半端に持ち上げられる形になったリーテンガルは、少しだけ浮いた足先を胴体の推力だけで折り曲げて、相手に攻撃をしかけようとした。
「リィ!」
その時、聞き慣れた明るい声に顔を上げる。瞬時に頭の中に浮かんだ人物は、姿を視認させるよりも早くその場所から跳躍し、リーテンガルの胸元を掴んだままの拷問担当の頭に飛び膝蹴りを食らわせた。衝撃に呻き声を上げて地面に倒れ込む彼と、それに連動してリーテンガルも地面に放り投げられる。拷問担当の背中に跨がって、彼女はにこりと笑った。盛大に地面に打ち付けて、じんじん痛む肩を押さえながらも、薄暗い室内にも関わらず彼女の笑顔だけは、やたらとはっきり認識できた。
「……ヒミツ?」
「うん!」
「お前、なんで……」
「ん! ピアントに聞いたり、匂い嗅いで、ちゃんと探した!」
にっこりと笑う彼女は、楽しくて堪らないといった風に左右にゆらゆら揺れながら、誉めてくれという顔つきだ。彼女が目の前に突きつけてきたのは、いつかの冬に帝都で引きちぎったロンディネファミリーのバッジだった。あの時得た情報を、まだ記憶に残したままだったのか。阿保だ阿保だと思っていたが、少しは成長したものだ。
「……――いい子だ」
彼女を誉めると同時に、張りつめていた体の力が抜ける。馬鹿力を発揮してリーテンガルの体を縛っていた縄を両手で引きちぎる彼女は、にこにこと笑みを絶やさずにいた。
解けたロープを足先で蹴りながら、リーテンガルは立ち上がる。凝り固まった体を伸ばしてヒミツとともにコンクリートの階段を上ると、廊下では拷問担当と同じように男達が地面に伏していた。無邪気な笑みを浮かべて腕を絡めてくるヒミツを見やり、少し呆れた声を出す。なんだかこれではヒミツの方がヒーローだ。
せっかく向こうから招いてくれたのだから、この際何かの証拠を掴んでしまいたかった。――が、今の状況では、それをするには余りに危険すぎるだろう。ヒミツがいくら規格外の強さを持つとは言え、彼女は唐突な事象に対応しきれないし、疲弊した体ではリーテンガルに適切な判断が出来るとも思えない。ミシミシと痛む頭と体を無理矢理に動かして、そっと廊下へと踏み出した。長い廊下には、部屋に繋がるドアが無数にあり、そのどれも開け放たれていた。おそらく、こっそりと敵を倒すなんて考えが全くないであろうヒミツの戦闘スタイルから、部屋の中にいた構成員は物音を不審に思っては廊下に出て、そうしてヒミツの怪力によって地に伏したのだろう。視界に入る部屋という部屋は無人で、室内を一つずつ見渡す事が出来た。そうして廊下の一番隅にある部屋に行き着いた時、つんと鼻につく匂いを感じた。部屋はリーテンガルが拘束されていた場所とよく似たコンクリートの壁と床を持ち、その床には赤い色が一面に広がっていた。真ん中には椅子に縛り付けられた、『人だったもの』が座らされており、リーテンガルは先ほどまで予定されていた自分の未来を連想して、ぞっと背筋が泡立つ感覚を味わう。そんなリーテンガルの吐き気も知らず、わぁ、なにかいるよ!などと興味津々にヒミツは部屋の中に首を突っ込んだ。
「おや、悪い蜂だ、子供を産まずにどこに行く?」
聞き覚えがある声が、するりと耳に入り込む。振り返らずとも、相手が誰かがわかった。背後に構成員を従えて、廊下の中心で少し困ったような顔をして銃を構えたアンセ・ロンディネは、リーテンガルが振り向くと同時に引き金に指をかけた。距離が遠い。あえて遠くを陣取ったのであろう彼は、リーテンガルの魔法の範疇には入らない。
「丁度良かった。ようこそ、カンフー少女」
アンセ・ロンディネはその整った顔に似つかわしくない下卑た笑みを浮かべて、かくんと首を横に倒して見せた。自分に声をかけられたと気付いたヒミツが、やっと彼の方へ振り返る。まずい、対応しきれていない。咄嗟にリーテンガルはヒミツの腕を引き、その華奢な体を引き込むように倒した。聞き慣れた銃声が、一発。瞬間赤い色が翻って、衝撃に体が傾いだ。
「リィ!」
悲痛なヒミツの声が耳に飛び込んで、それからやっと、痛みを脳が認識した。じくじくと焼けるように痛む肩を押さえて相手を睨む。熱い液体が押さえる掌の隙間から溢れ出し、その様子にわかりやすくヒミツが狼狽した。大丈夫だ、と無事を伝えてもなお、彼女はこちらの言葉を聞き届けない。
「リィ、リィ、いやだ、死ぬの?」
アンセ・ロンディネの愉快そうな笑い声を背後に、狼狽するヒミツはこちらの顔を必死で覗き込む。
「まだ殺さないさ、いずれはそうなるがね」
「……だめ。そんなの。だめ」
アンセ・ロンディネが付け足した言葉に、その紫色の瞳の瞳孔が、すうっと鈍く光を放った。敵と認識した相手に向き直ったヒミツの、その華奢な掌が一瞬にして肥大したかと思うと、
「ヒミツ……?」
瞬きの隙間に、その掌は、異形の物へと変化していた。
2016-09-08
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