宇宙人か野良犬か

白く濁る世界は、いつだって居心地がいい。ゆらゆらと天井へ上り、視界をさらに曇らせる煙を吐き出して、リーテンガルは麗らかな午後のティータイムを楽しんでいた。午後に飲む紅茶はいつも決まってダージリン。シルバーで出来たケーキスタンドは無いけれど、紅茶と煙草。その二つがあれば、彼にとっては最高の午後だ。

「わあー、おへやまっしろだよー!」

――廊下と部屋を繋ぐドアを、とんでもなく大きな音を立てて開く、宇宙人の姿さえなければ。

ドアに嵌め込まれた硝子細工にヒビが入る音を聞きながら、リーテンガルは、それはもう大きなため息を吐いた。


***


何度も何度も、それこそ軽く半月の収入が消えうせるくらいに、ドアノブを捻じ取られては直し、捻じ取られては直すことを繰り返しているうち、いつのまにか、この赤毛の宇宙人は野良犬のように事務所に居ついてしまった。

今では「おやすみ~」などと呑気な声と共に、眠っているリーテンガルの布団に潜り込んでくる始末だ。驚いて飛び起きたところで、もう既に彼女は微睡み始めていて、半眼でその幸せそうな表情を見下ろすことしかできない。そうして仕方なく二度寝を決め込むと、今度は朝早くにベッドの上で飛び跳ねる彼女に起こされる。その繰り返し。おかげで健康的な生活もいいところだ。自堕落な生活を送るために生きていると豪語しているリーテンガルの理想は、たった一人の宇宙人の所為でいとも容易く崩落した。

靴を履いたまま行儀悪く机に乗せたリーテンガルの足を跨いで、彼女は窓辺まで向かうと、これまた盛大な音を立てて窓を開け放つ。途端に冷たい冬の空気と入れ替わりに出て行ってしまう白煙に、あぁ、と残念そうな声を隠しきれなかった。

「オレは視界が白い方が落ち着くんだよ……」
「えぇー! ぼくの肺が真っ黒になっちゃう!」
「殺しても死なないような顔して何言ってやがる」

ハン、と鼻で笑いながら、口元に銜えた煙草から煙を吐き出す。流れ込んでくる風が、ヒミツの髪の毛を浚って音を立てた。その感触にくすぐったそうに肩を竦める彼女は、何が嬉しいのか、にこにこと笑いながらリーテンガルの隣へ腰かけた。お気に入りのソファが二人分の体重を受けて、クッションを沈ませる。

「あーん」
「……あ?」
「ぼくも吸ってみたい!」
「……阿呆、未成年だろう、お前」

ひな鳥のように口を開けて見せるヒミツの額を、折り曲げた人差し指の関節で叩く。

「ぶう、リィのイケズゥ」

叩かれた額を撫で擦りながら、ヒミツは不満気に唇を尖らせた。少なくとも年相応ではない仕草に少しだけ笑いそうになったけれど、ふと感じた違和感に、眉を顰める方が先だった。

「……なんだその間の抜けた呼び方」
「だって長いんだもん」
「可哀想に、覚えられないのか……」
「うん!」

こいつ皮肉が通じないのか。あ、馬鹿なのか。元気な返事と共に帰ってくる満面の笑みに、何処か遠い目をしてしまう。リィ、リィ、なんて、本当にご機嫌な様子で勝手につけた愛称を連呼するものだから、なんだか気恥ずかしくなってきた。体面の為に吐いた皮肉ですら彼女の前ではこんなにも無力なのだから、こうなってくると、この宇宙人に勝つ術など何もないのではとすら思う。脱力する体をソファに預ける。白かった世界は既に透明になってしまって少しだけ居心地が悪かった。そんなリーテンガルの気持ちを露ほども知らないヒミツだけが、ころころと笑う。

なんだか、まるで、ひとりじゃないみたいだ。ふと、そんなことを思う。長い間、リーテンガルはひとりを貫いてきた。探偵という仕事をやっている以上、人付き合いを要することは少なくないけれど、彼がこうやって午後のティータイムを楽しむことを知っている存在は、片手の指の数にも満たない。

安らぎは人をダメにする。そして、人との深い繋がりが増えるたびに、自分の事を知る人間が増えるのは嫌だった。それは即ち、リーテンガルの『過去』を知る人物と巡り合う確率を、底上げする行為だからだ。ヒミツがこの事務所に押し入ってからというもの、どうにも調子が狂う。確かに飢えてはいたけれど、決してリーテンガルの求めた非日常の形はこんなものではなかったはずなのに。

ぶるるん。外でバイクの音がする。昼下がりのこの時間なら、おそらく郵便屋だろう。何も言わずにヒミツに視線を投げると、彼女は待ってましたとばかり、弾けるようにソファを立った。玄関へと走っていく後姿に、長いツインテールがぴょんぴょん跳ねながらついていく様子を、これだけは便利だなぁと、軽く笑って煙を吐き出す。

「リィ、全部捨てていい?」
「良いわけあるか。DMは捨てるか、それ見て飢えてろ。それ以外は寄越せ」

両手いっぱいの郵便物と共にリビングに戻ってきたヒミツは、わざわざ受け取ってきたそれに、さして愛着を見せずにとんでもない事を言う。ひらひら片手を手招いて、『よこせ』の仕草をして見せると、元気だけは良い挨拶とともに、それらは机の上に音を立てて落とされた。内容はほとんどダイレクトメール。ピザの配達、スーパーのチラシ、物件案内一枚一枚、これおいしそう、食べたい!なんて、丁寧にコメントをしながら選り分けを行うヒミツの手のひらに、ふと一通の封筒が握られた。

ダイレクトメールにしては、豪奢な封蝋印。ティーカップに口につけていたリーテンガルは、その封筒にそっと手を伸ばした。受け取った時に、仄かな香水の香りがする。鼻につくこの匂いはジャスミンだろうか。香水の類は、何時までも鼻に残って消えないから苦手だ。眉間に皺を寄せながら、封筒を裏表に引っ繰り返す。宛名は『リーテンガル・シャエラン様』。差出人は無記名だったが、代わりにホールマークが捺してある。

なおもダイレクトメールの食べ物にばかり目を奪われているヒミツの能天気な台詞をバックに、ティーカップを置いて封筒を開く。そこから出てきたのは二枚の便箋。赤色の、おそらく万年筆で綴られた筆跡は流暢だった。机の上に投げ出し、組んでいた足を組み替える。文字を追うごとに、リーテンガルの笑みが深くなった。

「おい」
「おいしそう……これ、今から行ったら食べられるかな……」
「おい、……――ヒミツ」
「……ん?」
「しばらくオレはここには帰ってこないから……」

ドアノブ捻じ取るんじゃないぞ。そう言おうとした言葉は、じわじわと笑顔を浮かべていくヒミツに吸収されるように尻すぼみになってしまった。なんだよ、と声を上げる前に、机の向こうから彼女が飛びついてくる。突然の衝撃にソファーが揺れる。机も揺れる。硝子で出来た天板が、みしりと嫌な音を立てたのと、首元をヒミツの髪の毛が擽ったのは、ほぼ同時だった。突然のことに思わず瞠目するも、状況把握を許さない彼女に間髪入れずぐりぐりと頬を擦りつけられ、リーテンガルの頭はパニックだ。言葉にならない声を零すと、最早満面の笑みを浮かべたヒミツが顔を上げた。

「やっと呼んでくれたね!」
「……はぁ?」
「名前! ぼくの名前、ヒミツって言うんだよ! 知ってた?」
「……いいからどけ」

たったそれくらいのことで、そんなにも喜べる彼女の頭が羨ましい。一体全体どうなっているんだ。退けと指示してもヒミツは全く退こうとしないまま、それどころかリーテンガルの手にあった便箋を奪い取って、それを読み上げ始めた。

「……さま……より……」
「……お前、文字読めないのか……」
「ん! でもでも、なんとなくわかるよ! 仕事でしょ!」

もはや野生の勘だろうか。手紙はこの国の首都である『帝都』に住む雑技団の団長から。帝都から離れたこの田舎町の住人でも、名前を聞くだけで顔が浮かぶ有名な人物だ。

「まぁ、当たらずとも遠からず。だから、オレは」
「ぼくもいく!」
「……あのなぁ」
「やだやだやだ、ぼくもいく! 街に! これ! 食べに行く!」

そうしてヒミツが指差すのは、さっきまで上機嫌で仕分け作業を行っていたダイレクトメールの中の一枚。そこにはチーズの糸を引く描写が実に食欲をそそるピザや、肉汁を含んだ肉がみっしりとつまったケバブの写真が載っていた。店名は確かに帝都にしかない店のもの。

野良犬に要らない情報を与えるんじゃなかった。リーテンガルは至極嫌そうな顔で、膝に乗ったまま左右に揺れるヒミツのツインテールが彼女の動きに追従する様を眺めて、本日一番の自分の失態を悔やんだ。


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2015-10-02
推敲:2016-09-08
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