踏み込んだ巣穴
久々に訪れた帝都は、相変わらず噎せ返るような群衆で溢れていた。右を見ても、左を見ても、人、人、人。まだ帝都に着いてから三十分も経過していないが、それでもすでにリーテンガルの頭はミシミシと痛み始めていた。人混みは嫌いだ。暑くて鬱陶しいし、更には――これが一番のネックだが、リーテンガルのことを知る誰かに出会うかもしれない。憂鬱な気分は自然と彼の眉間の皺を深くする。面白そうな依頼に引き寄せられたはいいものの、あまりに久しぶりすぎて、帝都の性質というものをすっかり忘れてしまっていた。
今回の旅でどうにも気が重いのは前述のこと以外に、もう一つ原因があった。重たいため息と共に目深に被ったキャスケット帽の鍔を引き上げ、澄んだ瞳を細めると、気怠く遥か後方へと目線を向ける。彼のため息を知らずに、立ち並ぶ屋台の一つ一つにちょっかいをかけているヒミツが視線に気付いて、リィ、おいしそうなものがいっぱい!と、それはそれは無邪気な笑みとともにリーテンガルに向けて大きく手のひらを左右に振った。その腕には、彼女の目の前にある屋台のものと見える、大量のローストチキン。
嘘だろ。思わず声に零したリーテンガルの予感は的中し、彼女はそのままこちらに走ってくる。金なんか渡してない。つまるところ、「こらー!」ただでさえ厳めしい顔の店員が、さらに眉を吊り上げて叫ぶのも、当然のことだった。
怒号すらも耳に入れずに、ヒミツは一直線にリーテンガルの元へ走ってくる。その足の早さといったら、人ごみを器用に避け追いかけてくる店員をぐんぐん引き離してくるものだから、こいつは人の姿をした何か、四足動物なのじゃないかと疑うくらいだ。なんなのだこいつは本当に。ものを得るために必要な代価すら理解が出来ていないのだから、もはや五歳児以下だ。
盛大に大きくため息をついて、眼前で飛び跳ねる茜色の頭を握った拳の角でぐりぐりと抉ると、彼女はじゃれてるのだと勘違いしてか、楽しげに声を上げるだけだ。やがて追いついた店員が息を切らして、兄ちゃん、保護者か。とリーテンガルの方へとその強面を向ける。すごくすごく、肯定をするのが躊躇われる質問だったが、渋々頷いた。
「悪い、このバカ、いくら分持って行った?」
なおもぐりぐりと稼働するリーテンガルの拳をくすぐったそうにしながらも、両手いっぱいのローストチキンに目をきらきらさせて、その中の一本にかぶりつくヒミツが視界の端に映って頭が痛い。呆れ顔で問いかけると、彼から返ってきた返事はなかなかの金額だった。屋台の品物はただでさえ高くつく。それをこれだけ持ってくれば、まぁ、妥当なところだろう。本当に、なんて疫病神だ。ため息を付きながら、示されたものに、更に上乗せした金額を店員に手渡した。
「これで許してくれないか、こいつ、頭のネジが行方不明なんだ」
「嫌にナチュラルな食い逃げだと思ったよ。……いいぜ、もうやんなよ、嬢ちゃん」
「うん!」
「……明日には忘れてる顔してるな」
「残念ながら、三分後だ」
「……兄ちゃんも若いのに大変だなぁ」
何故だか出会ってすぐの人に同情されてしまった。返事に困っているうちに彼は自分の屋台へと戻っていき、残されたのはローストチキンを幸せそうに頬張るヒミツと、寂しくなった財布だけだった。リーテンガルは半眼でヒミツを見やる。幸せそうな顔がどうにも憎らしくって、手にしたローストチキンに横からかぶりついてやった。ああ、僕のチキン!と大きな声で騒ぐヒミツだったが、そもそもリーテンガルの金で買ったものだ。とやかく言われる筋合いはないぞ、と鼻を鳴らすと、彼女はとても悔しそうにリーテンガルの足を思い切り踏んでくる。このガキ。簀巻きにして川に流してやろうか。
「大体な、お前、オレの後ろに居ろっていったろう」
「いたよ!」
「何メートル後ろにだよ、馬鹿」
拳を離して、先に足を進める。ローストチキンを抱えたままの彼女は、今度はやっとリーテンガルの一歩後ろを歩いて、るんるんと体を左右に揺らしている。長い髪の毛が動きに連動して、さらさらと流れていった。
帝都は丸い形をしていて、東西南北に一つずつ外門が取り付けられている。周りは深い海で隔絶されており、周囲の街と繋がるのは一本の橋のみだ。何でも外から攻め込まれた時に、先ずは橋を落とせばいいという短絡的な思考から建設されたらしい。街を守り切れたとしても籠城するには、ビルや建物ばかりが立ち並ぶ帝都は自己生産能力が低すぎると思うのだが――。まぁ、帝都の今後を思案したところで、リーテンガルが何かを出来るわけではないか。
橋を渡った直後、外門のすぐ傍にはたくさんの屋台が並んでおり、視覚にも嗅覚にも、更には聴覚にもダイレクトに訴えてくる様々なジャンクフードを売っていた。なおも目移りが止まらないらしいヒミツの頭を小突いて、リーテンガルは足を早める。
手紙の主は、帝都の真ん中より少し東に住んでいるらしい。リーテンガルの事務所がある砂漠側はどうしても南の門から入るしかない。遠い距離を思って少しだけ気持ちが萎んだが、それでもこの場所に留まってヒミツに振り回されるよりも随分マシだろうと自己完結する。早く済ませて、早く帰ろう。帝都はやっぱり性に合わない。
***
やっと目当ての家へたどり着いた時、辺りはとっぷりと闇に沈んでいた。そして隣のヒミツは、通りすがる店という店で食べ物をねだり、食べ、ねだりを繰り返した結果、満腹を通り過ぎて気分を害し真っ青な顔をしている。ここまで食に執着して自業自得としか言えない結果を招くような人物を、リーテンガルは彼女しか知らない。
しっかりしろよ、と呆れ顔で彼女の頬を抓ってから、呼び鈴を鳴らす。高い音が響き渡るとともに、夜道の静けさが映えた。程なくしてドアのそばまでの足音がする。音を立てて開いた扉から、明るい光がこちらへと流れ込んできた。
ドアを開けたのは、妙齢の男性。白くなった、けれどもまだ豊かな髪の毛を冬の風に揺らす姿がやたらと様になった。背の高い彼と、その反対であるリーテンガルとでは、大きな身長差が発生する。内心で舌打ちしながら、リーテンガルは首を上に持ち上げて、ひらり、送られてきた手紙を右手でひらめかせた。
「あんたがこの手紙の主?」
「おぉ……、貴殿がリーテンガル殿か。若いとは聞いていたが、これ程とは」
喋り口調にすら、若いころはさぞたくさんの女を夢中にさせてきたのであろう性格のよさを滲ませている。外見年齢については、常日頃から指摘されているから大それた言及はしない。生まれつきの外見は、少しの努力ではどうにもならなかったのだ。煙草は合法だぜ、と口に銜えたままだった煙草を指に挟んでみせると、彼は安心したように破顔してリーテンガルへと握手を求めた。ふわり、と、あの時に嗅いだジャスミンの匂いがする。
「その通りだ、お会いできて光栄だよ」
「あー、オレもオレも。……で、まだ解決してないよな、当然」
「あぁ……、帝都軍は匙を投げてしまった」
握手を返しながら投げかけた言葉に彼は、明るかった表情を少しだけ暗くして頼りなげに微笑んだ。中へどうぞ。寒かったろう。
示された扉の先には明るい光と暖かな空気が満ちていて、リーテンガルは後ろで未だ気分が優れずに青い顔をしているヒミツの首根っこを掴んで、彼の言葉に甘えることにした。
2016-03-07
推敲:2016-09-08
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