君がくれた日常
茹だるような夏の暑さは身に合わない。喉の乾きを感じて瞼を開くと、遠慮なしに降り注いでくる太陽の光が目を刺した。ベッドの脇に視線を逸らしてみれば、いつもいつの間にかベッドに潜り込んでいるヒミツの姿が見えない。今度はいったい何処に行ったのだろう。妙なことをしでかしていないといいが。すでにニコチンがないとやっていけなくなってしまった体が有害物質を欲する悲鳴を訊き届け、リーテンガルはベッドの中でタバコに火をつけた。
息を吸って、吐いて、体内に浸透する煙を感じて、小さくため息。そうして窓の外に視線を向けたとき、遠慮を知らないドアがばたりと大きな音を立てて開いた。顔を覗かせたのは、最早この事務所の助手代わりになっているヒミツだった。長く伸ばした髪の毛を揺らして、隙間から顔をひょっこりと出してくる様子は、小動物の様だとふと思う。
「リィー、髪の毛してぇ」
暑苦しいから切れと言っているのに、ヒミツは長く伸ばした髪の毛を一向に切ろうとしない。曰く、伸ばした髪をお団子にするのが、好きなのだという。そのくせ変に不器用で、自分自身で好きな髪型に纏められないのだからタチが悪い。最近買い与えたばかりの簪を手にしたヒミツが、しょんぼりと眉を落とすから仕方なく、ベッドの縁を叩いて座るように示し、自らも縁へと移動した。途端に示された場所へ跳ねるようにして座ったヒミツは、上機嫌に簪を二本渡してくる。
冬に行った帝都での事件以来、助手という役割を果たすようになった彼女に対して、衣食住の面倒を請け負うようになってからもう半年が過ぎた。今彼女が身に纏っている服も、最近強請られ買い与えたばかりの新しい衣服だ。上着は薄紫色の着物、その上に中華風のベスト、さらに茶色のスカートと、統一感の全くないチョイスが彼女らしい。
「リィ、今日はどこかいく?」
「――いや、今日は調べ物だな。適当に遊んでこい」
「はぁーい。最近、しらべもの、多いね」
首を傾げるヒミツに、ちゃんとまっすぐ前を見ろと頭を叩く。この作業を行っているときのリーテンガルは真剣だ。何度やっても人の体の一部を扱うというのは慣れないのに、彼女の髪の毛は太く艶がある上に猫っ毛で、リーテンガルの作業の大きな障壁となるのだ。両側で二つに纏めてお団子にするようにして纏めるも、いつも纏めきれずにかなりの毛量がはみ出した。それでもその失敗した髪型を彼女自身は意外と気に入ったらしく、最近はその髪型ではないと、これじゃないと言い張るようになった。今なら昔よりはまともに纏めることが出来るとは思うが、――まぁ、気に入っているのならそれでいいか。
両側を纏め終わったリーテンガルは、ヒミツの肩を軽く叩き、それからぐんと背伸びをして立ち上がった。リビングへ出ると、テーブルの上には渦重なった書類の山。そのどれもが、あるマフィア組織に関わる資料だった。礼を言ったヒミツが、はみ出した髪の毛をゆらゆらと揺らしてキッチンに向かっていく。
調べ物が多いといったヒミツの指摘通り、ここ一、二ヶ月はひたすらに調べ物ばかりを重ねている。帝都での一件以来、そして、懐かしい幼なじみに遭遇して以来。リーテンガルの心には一つ、向き合わなければいけない過去が首をもたげてこちらを見つめ続けていた。ロンディネファミリー。かつてリーテンガルが犯罪に手を染める切っ掛けを助長させた存在だ。
これは、いわゆる憂さ晴らしだ。あの日燃やした街、吹き消した命。それらを思いだし、心臓がきゅうと痛む思いをすることに辟易した結果、リーテンガルは彼らを調べ、帝都軍に突き出すことを此処最近の一番の目的とした。実際、夏になる前に一件だけ受けた依頼以外には、現在は新たな調査の依頼を全て断っている。幸いなことに一般的なものと比べて高額な依頼料を、さしたる趣味もないリーテンガルは殆ど使っていなかったから、しばらく仕事をしなくてもよい程の貯蓄はあった。
机の上の書類を一枚手にとって、まだ眠気が冷めないままの瞳でその文字を追う。ロンディネ、絡繰りの街と呼ばれた街、その実体、街の子供たちに吸わせていた煙草の中身。事件の記録を読み進めるに従って、過去の苦い記憶が蘇ってくる。自嘲気味に笑ってソファの背もたれに沿うように首を反らし、煙草の煙を天井に向かって吐き出すと、遠くから明るい声が飛んできた。
「リィ、今日ね、目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいい?」
「あー、スクランブルエッグ」
「はぁい!」
そうして返事を返したとき、あ、とヒミツが何かに気付いて声を上げた。今度はなんだろうと、視線だけをそちらに投げると、彼女は困ったような顔でこちらへかけてくる。
「リィー、耳出てる……」
「は? ――あぁ」
眉を落とした彼女の横髪の隙間から、ひょこりと耳が覗いている。何事にも清々しいまでに奔放に生きているヒミツであったが、一つだけ妙なこだわりがあった。それが、この、耳を出すという行為。なんでも両親から、耳を出してはいけないと重々教え込まれていたらしく、いつも彼女は横髪でそれを隠していた。そういえば、寝起きだったこともあり、その拘りをさっぱり忘れて結構な量の横髪も纏めてしまっていた。リーテンガルはソファの上に片膝を立てて、先ほどベッドでしたように、自分の足の間を掌で軽く叩いて合図をした。既にその合図に慣れきったヒミツは落とした眉を元に戻して、喜び勇んでリーテンガルの足の間に座る。結った髪の毛を解くと、その耳が目についた。他人の耳など、そんなに注視することがないから気のせいかもしれないが、ヒミツの耳は上部が少し尖って見える。それ故に隠せと言われていたのだろうか。ヒミツ本人もまともに理解していないのだから、徒労に終わることが分かり切っている思案を巡らせながら、髪の毛を結びなおした。
「スクランブルエッグとー、サラダとー、アップルシナモントースト作った!」
「うえ。シナモンはいらね」
「えぇ、シナモン美味しいよ」
「嘘だろ、木の皮だぞ? 何が美味いんだか」
「えっあれって木だったの。美味しいはずだね!」
「はぁ?」
髪を結ばれながら、またにこにこするヒミツに呆れたため息。彼女とは本当に趣味嗜好が合わない。
結び終わって肩を叩くと、ヒミツは自分の耳元を触って確認してから、本日二回目のお礼を口にした。それからまた、ぱたぱたとキッチンの方へと向かっていく。結ったばかりの髪の毛が、ぱたぱたと動きに追従していく様を見送りながら、ふと、彼女のことも調べようと思っていたことを思い出す。
なにせ、不思議なことが多すぎる。その怪力や、出自、あまりに精神年齢が幼いこと。リーテンガルとしては何か特殊な病なのではないかと疑っていた。ロンディネファミリーの件が一段落ついたら、彼女についても調べてみよう。わかることは名前とその外見的特徴くらいなものだから、難航しそうだが。そんなことをぼんやりと思いながら、リーテンガルは煙草の煙を吐き出して、また書類へと目を落とした。
やがて片腕で器用に三枚の皿をこちらに運んだヒミツは、机の上に散らばった書類を適当な仕草で全て床に払い落とし、にっこりと笑う。
「はーい。めしあがれー」
「おまえなぁ……、もっとこう……丁寧にやれないのか……」
床に雪崩落ちた書類の山を半眼で見やるが、彼女はなにが悪いのか全くわかっていない顔で、きょとんと首を傾げてしまった。本当に、変な奴。独り言ちてリーテンガルは、何でもないと軽く会話を打ち切った。たぶんこれ以上言及しても、無意味だろう。
目の前でヒミツがトーストにかぶりつく。一口食べて咀嚼してから、彼女は片方だけ尖った八重歯を覗かせ、とても幸せそうに笑った。
「リィ、美味しいね」
二人での食事にもう、慣れきっている。彼女がやってきてからの非日常が、いつのまにか日常になってしまった。『非日常』は、慣れてしまえばすぐに『日常』へと変化する。1人だった時、どんな風に生活をしていたのか、最早リーテンガルの記憶は曖昧だ。それだけこの、ヒミツという厄介者の存在が自分に馴染んでいてしまっている。リーテンガルは少しだけむず痒い気持ちを抱えて、良かったなと、一言だけ答えた。それでもあの頃の『日常』とはまた違う、今の『日常』は妙に居心地がよかった。
2016-09-08
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